華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

万葉集青春ノート 巻第一 (25〜44)

#2Man'yoshuⅠ#4


万葉集巻第一 上古音とされる音韻での朗読の試み









奈良県において吉野郡の占める面積は、圧倒的である。県中央部を東西に流れる吉野川の南側は全て「吉野」と呼ばれ、その向こう側はもう「熊野」、すなわち太平洋になる。奈良盆地の子どもたちにとって「吉野に行く」というのは「秘境で大冒険」と同義の憧れをもって語られる言葉であり、「夏休みに吉野に行った」と言えばそれだけでうらやましがられるに値することだったのだが、そんな私たちのことを吉野の子どもたちがどう思っていたのかは、残念ながら知る機会がなかった。

「広義の吉野」はそんな風に広いのだが、「狭義の吉野」は近鉄吉野線の終点あたりを中心とした、小ぢんまりした一角である。吉野川の北側では上市の町が昔から栄え、南側が千本桜や蔵王堂のある「吉野山」になっている。そして天武天皇の「吉野宮」はそれより5キロぐらい東に外れた、宮滝というところにあったと言われている。ひとつひとつの地名に思い出が染みついているが、また語る機会もあろうから一度には言わない。

「吉野」という地名は「よ」が「乙類ヨ」で「の」が「甲類ノ」になっている。朗読ではその通りに読んでいるのだが、1934年に「発見」された「有坂·池上法則」によるならば、上代の言葉には「オ列甲類音とオ列乙類音とは、同一結合単位内に共存することはない」という原則が存在したらしく、トルコ語やモンゴル語の「母音調和」との同一性が指摘されている。「よしの」が「同一結合単位」と見なされるのか、「よし」「の」でそれぞれ一単位となるのか、手元の資料だけでは判然としないが、あるいは「の」が「よ」に引きずられる形で「乙類」に変化するようなことも、起こっていたのかもしれない。実際に読んでみた感想としては、その方がずっと読みやすい。

「みみがのみね」という「かわいい名前」の山は、今の吉野郡には存在していない。金峰山(大峰山)のことではないかと言われているが、「大峰山」自体吉野から熊野までずっと連なっている山脈の「総称」なので、つまるところ「宮滝から川を挟んで南側に見える山の全部」という認識でよかったのではないかと思う。



「乙類オ」の発音が定説通りに「Ö」だったのだと仮定するならば、こんなに読みにくい歌は他にない。罰ゲームみたいな歌である。天武天皇はおそらく家来を横一列に並ばせてこの歌を暗唱させ、言い間違えた者の首をはねる、みたいな残虐な遊びを楽しんでいたのであろう。それが事実に反していたとしても、彼氏が残虐な専制君主であったこと自体は紛れもない事実である。

それと、「よし」という形容詞に「淑」「良」「吉」「好」「芳」という違った漢字が宛てられており、それぞれに微妙に違った意味が持たされていることから、「万葉集は万葉仮名の原文で読んでこそ味わいがあるのだ」みたいなことを言う向きもあるようだが、私に言わせればそんなのは、キザなだけである。



百人一首では「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天香具山」という文面で知られている歌。この「ほすてふ」を「ほすちょー」と読むのだという説明が、昔の私にはどうも納得行かなかった。「てふてふ」はそれは確かに「蝶々」なのだろうけど、「と云ふ」→「てふ」→「ちょー」などという変化の仕方が、本当にありうるものなのだろうか。「と云ふ」が変化するとしたら、関西人の感覚としては「ちゅー」になるはずだとしか思えないのである。とはいえまあ、昔は明らかに書かれた通りに「テフ」もしくは「テプ」と読んでいたのだ。それを現代仮名遣い的な発音で「読み直させる」教え方自体が、間違っているのだと思う。

ところで百人一首の「坊主めくり」における「畳ルール」というものを皆さん、ご存知だろうか。高校の時だったけど、授業の関係で教室に百人一首が置いてあったので坊主めくりでもやろうかという話になり、男5人ぐらいでやり始めたのだったが、途中でこの持統天皇の札を引いたやつがいきなり「タタミ!タタミ!」と絶叫しながら他のメンバーの札を叩いて回り、全部を「自分のもの」にしてしまったのである。みんながアッケに取られているのを見てそいつは「何や、畳ルール、知らんのん?」と言い、初めて我々に説明してくれた。それによると即ち、百人一首の絵札には「畳の上に座っている人物」の札が何枚かあり、それを引いた人はすかさず「タタミ!」と叫んで周りのメンバーの札を叩けば、自分の札にできるのだが、その前に手でふさがれてしまったら取れない、ということなのである。そいつ以外は誰も知らなかったルールだったが、採用してみるとその方がずっと面白く、うちのクラスの「坊主めくり」はたちまち緊張感を孕んだスリリングなゲームへと生まれ変わって、よそのクラスからも参加者が押し寄せるほどの盛況ぶりを呈することになった。今にして思えばなぜあんなことに夢中になれたのか全然わからないのだが。

それでもって百人一首の絵札の中でどういう人物が「畳の上に座っている」描かれ方をされているのかといえば、つまるところ「天皇もしくは皇族の札」なのである。「畳ルール」そのものは坊主めくりというゲームを飛躍的に楽しくしてくれるものではあったが、そんな形で「天皇を特別扱いすること」を「ルール」として受け入れ、かつ天皇(の札)を見たら反射的に「うれしい」と思ってしまう感覚というものを私たちは「仕込まれて」いたのだなと思うと、実にけったくその悪い感じがする。後味の悪い思い出である。








さて、柿本人麻呂の初登場なのだが、巻第一を通読した上でのこの人の印象はつくづく「べんちゃら歌人」だったのだなあ、というものだった。巻第一にはこの人の長歌が4首出てくるが、その全てが「やすみしし吾が大王」で始まって天皇もしくは皇族をひたすら讃えまくる内容に貫かれており、天皇を讃えるというその行為に酔いしれかつ天皇を讃えるという任務を与えられた自分自身の立場に酔いしれ、語っているうちにトランス状態になってうわごと的に天皇を讃える言葉が吐き出されている、みたいな印象を受ける。その「没我状態」は聞いている天皇自身はもとよりその場に居合わせた人間たちをも「感応」させて同じ精神状態に引き込むような「力」を実際に持っていたのだと思われ、その意味では「呪術的な能力」みたいなものを備えた人物だったのだと思われるのだが、だからといって現代に生きる我々までがそれに「感応」させられねばならない理由はどこにもないのである。天武天皇に敵対して滅ぼされた豪族たちの中にも、人麻呂的な立場の人はいただろう。人麻呂だけが特別だったのではなく、むしろ「権力の庇護にあずかれた結果として特別な存在になれた」にすぎないのが人麻呂という人物だったのだと思うし、それを有り難がる人というのは結局「歌」そのものではなく「権力」を有り難がっているにすぎないのだと思う。

この歌は、天武天皇の前の天智天皇(もっとも、天皇が自らを「天皇」と名乗りだしたのは天武の時が最初だそうであり、それ以前の歴代の「天皇」に「諡号」が与えられたのも天武以降のことだという)が開いた近江の大津京が、明日香に都を戻した天武の時代になってすっかり荒れ果ててしまった様を嘆いた歌であるらしいのだが、なぜ大津京が荒廃したのかといえば、天武その人が壬申の乱で滅ぼしたからである。だから「下手な嘆き方」をすると天皇批判になるという緊張感がこの歌には存在しており、それとバランスを取るためなのか何なのか、前半部分では一生懸命天皇を讃える美辞麗句が重ねられているのだけれど、読んでいて「人麻呂自身の言葉」として伝わってくるのは最後の「見れば悲しも」という一言だけであるような気がする。

だったら、それだけ言えばいいのである。つまらない歌だと思う。



そんな風に長歌に関しては「やすみしし吾が大王」という言葉が出てきただけで「やめてくれー」と私はなるのだけれど、短歌になると「端的な表現」が求められるからだろうか。人麻呂という人の言葉の使い方は確かに「冴えて」いたのだなと思わされる点が少なくない。この「からさきさきくあれ」というフレーズの子音の使い方などは、おそらく相当に推敲されたものだろうな、という印象を受ける。「大宮人の船待ちかねつ」は、「大宮人が船を待っている」のではなく、「大宮人が遥か昔に乗って行ってしまった船を自分は空しく待っている」という意味だそうである。



琵琶湖という湖は、地図で見て下の方のくびれてセクシィな部分に渡されている琵琶湖大橋を境にして「北湖」と「南湖」に分けられる。そして北湖と南湖ではまるで別の世界かと思うぐらいにイメージが違う。南湖は「大きな川」みたいなもので、対岸の街もよく見えるし、水が汚れていて泳げる場所もない。けれども琵琶湖大橋から北側に目を転じると、そこに広がっているのは本当に「海と変わらない世界」である。

前の歌の舞台や大津京のあった場所は南湖の沿岸に当たっているが、この歌は北湖が舞台になっている。「淀む」という言葉の使い方に、琵琶湖がいっぺんに広くなって深くなる志賀町付近の風景のイメージが凝縮されていて、私にとってはものすごくリアリティを感じさせる歌である。

その湖西の道も、安曇川町の親戚の家に遊びに行くために毎年通った道だった。奈良ではあまり見ないトンビが、いつも比良山をバックにしてゆっくりと飛んでいたのを覚えている。



高市古人という人名は伝わっていない。あるいはこの歌の冒頭が「古人」になっていることから、高市黒人という歌人のあだ名もしくはペンネームみたいなものになっていたのではないかとも言われているらしい。

「古いやつだとお思いでしょうが、古いやつほど新しいものをほしがるものなんでござんす」という歌が私の生まれるずっと前にあったけど、今では本当に「古い歌」になってしまったのだろうな、という感じがする。古くても私が子どもの頃にはまだ流れていたそうした歌が、今でも流れている場面に出会えることはほとんどない。時間の経過というのは、リアルなものなのだと思う。



「国つ御神の心さびて」というのは、近江の国の地霊の心が衰弱してしまったさま、の表現であるらしい。そんな、見えないものを見えてるように表現できるのもすごいと思うが、あるいはそれは見えてるもののことを見えないものにたとえて表現しているだけなのかもしれない。だんだん疲れてきたみたいだな私。



山上憶良がここで地味ぃに初登場しているのだが、題詞を見る限りこの歌は「山上憶良が代作して川島皇子の作品として発表された歌」であるらしい。宮廷歌人というのは、そういうことばかりやらされていたのだろうな。

「手向け草」というのは「旅の安全を祈って木の枝に結びつけられたおまじない」の印で、「草」でなく「布」であることもあったらしい。その、いつとも知れず古いやつが、浜辺の松の枝に結ばれたままになっている、という歌。絵が浮かんでくるようだ。



阿閉皇女というのは後の「元明天皇」である。のはいいとして、この「背山」がどこの山だったのかということが、よく分かっていないらしい。「背山」とは普通、二つの山が並んで立っているのを夫婦に見立てて「妹背山」と呼ぶその片方の山につけられる名前であり、私が知っていた「妹背山」は前述した吉野の宮滝にある「妹背山」だけだった。ところが奈良と和歌山の間には、現在のかつらぎ町と和歌山市にも別の「妹背山」が存在し、それぞれが「本家争い」をしている状態が続いているらしい。「本家」の根拠がこんな歌ひとつなのだとしたら、実にしょーもない話だと思う。「これやこの」しか言っていないのに。






さて、人麻呂がまた讃えている。今度は吉野で讃えている。具体的には吉野宮のありさまを讃えている。讃える内容は何でもいいみたいである。「子ほめ」や「牛ほめ」みたいな落語はこうしたところにルーツを持っているのかもしれないな、みたいなことをちょっと思う。それだけである。なので流す。



吉野川の急流は見ていて全然飽きないので、ついつい繰り返し見てしまう。そういうことってあるよね。うんあると思うよ。次。





そんでもって讃え足りなかったと見えてまた讃えだすのである。またたた。人麻呂また讃えてやがる。エンゲルバーグまた食ってやがる。というのは中川家のお兄さんの方がいつもマネしていた映画「がんばれベアーズ」の一場面。今度は何を讃えているかといえば吉野の大自然を讃えているようで、その讃えられるべき大自然そのものが天皇陛下の下僕となって仕えておりますなあ、的な結び方がされている。大自然だけ讃えてりゃいいものを。



「神ながら船出せす」というのは「(天皇が)神そのものとなって船出する」という意味なのだそうである。してくれたらいいのだがしかし吉野の宮滝からかれらがどこに「船出」したのだろうかということはつくづく疑問に思う。人麻呂も「見れど飽かぬ」と言っている通り、吉野川のあのあたりはものすごい急流で、ゴムボートでもクルクル回ってしまう。あんな危ないところからわざわざ船に乗ってどこに行く必要があったのだろう。対岸だろうか。それとも和歌山あたりまで、行ってたのだろうか。



そして、ここから歌の舞台は一気に三重県の伊勢志摩国立公園に飛ぶ。近鉄特急の終着点で、奈良県の小学生にとっては憧れの行楽地である。奈良にないものは海とタワーと水族館。伊勢志摩にはタワーを除く全てがあった。鳥羽水族館にはラッコがいて、賢島マリンワールドにはマンボウがいるのだ。今でもいるかどうか知らないが当時はいたのだ。それでラッコとマンボウのどちらを見たいか親に聞かれて私はマンボウが見たかったのだけど弟二人がラッコを見たいというもので結局行先は鳥羽に決まり、マンボウは見られないまま終わってしまったのだ。その後30代になってようやく私は東京の池袋のサンシャイン水族館でマンボウを目にすることができたのだったが、うむ。少しも有難くなかった。あのデカさは、小学生だった頃の自分にこそ見せてやりたかった。何の話なのだ。

ちなみに「志摩国」というのは都が奈良に移る前後の時代になってから設置された新しい「国」だったのだそうで、この歌の時代には現在の鳥羽市と志摩市まで引っくるめた全体が「伊勢国」と呼ばれていたらしい。そしてここからの数首の歌は、天武天皇の死後にその位を引き継いだ持統天皇が伊勢国に行った際、明日香の都に残った人麻呂が「その情景を想像して」詠んだ歌だと説明されている。何やら、いろいろな背景があったようである。

この冒頭の「鳴呼見乃浦」という漢字の使い方に、ドキッとさせられない人はいないのではないだろうか。当時の言葉は「母音の連続を極端に嫌う性質」を持っていたというので、この読み方が「ああみのうら」であったことはまずありえず、「あみのうら」であったことはまず間違いないのだが、しかしながら万葉仮名の漢字というものは中国語の原典を踏まえた上で使われるのである。この文字使いの中で人麻呂は明らかに「慟哭」している。

このことについて、この歌に出てくる「おとめ (黒い◾️はフォントがなくて表示できなかった文字)」たちはみな持統天皇から何らかの罪を着せられて、志摩半島の沖合いで海に沈められて殺されたのではなかったか、人麻呂はそれを悼んでこの歌を残したのではないか、という説をどこかで読んだような気がするのだが、出典が思い出せない。何にせよ、すごく「不気味な感じ」の漂う歌であることは否定のしようがないと思う。



「釧(くしろ)」というのは「貝殻や石で作った古代の腕輪」だそうなのだが、私が子どもの頃に橿原の博物館で初めて見た「くしろ」は下の写真のようにとても「痛そう」なものだった。石で作ったものなどには、トゲトゲのないデザインもあるのだが、こんなものを本当に腕にはめていたのだろうか。この「トゲトゲの形状」が、志摩半島の海岸線の形や、あそこで採れるサザエのイメージとも重なって、私の中ではこの歌の全体を規定している。解釈がおかしいと言われたらそれまでだが、何とも「痛い感じのする歌」なのである。「乙女」の手首から血がにじむのが見えてくるような気まで、してしまう。

「玉藻を刈る」というのは前にも出てきた表現だが、海藻を採ってどうするのかというと、食べていたらしい。これはこれで「大宮人」のする仕事ではないような気もするわけで、何らかの「刑罰」みたいなイメージが浮かんでこないでもない。





「伊良湖島」は前回の記事に出てきた三重県鳥羽市の神島に比定される島で、三島由紀夫は「潮騒」という小説のタイトルをこの歌から取ったのだろう。「島廻」というのは「島の周り」ということで、波も荒そうなのにこの人たちはなぜか「上陸」しない。「隠された意味」云々のことまではここでは詮索しないけど、以上の三首が単なる「のどかな情景」を描いた歌でないことは、確かなことだと感じる。



作者が変わる。持統天皇について伊勢に行った夫の帰りを待つ女性の歌である。「名張」は大和の東隣の伊賀国の地名で、小学生の時にはそこから引っ越してきた転校生の友だちと仲良くなったことがあったっけ。大イナカとして知られる奈良県室生村でかつて「ジャスコ名張店まで42キロメートル」という標識を見て、気が遠くなった記憶がある。そない走らんとスーパーにも行かれへんのかここは、と思ったのだった。その名張の地を実際に踏んだことは、私はまだない。



「いざ見の山」は大和と伊勢の国境にそびえる高見山のことを指しているらしく、冬は樹氷が有名である。高見山といえば本当に小さかった頃、ひらかたパークで出会った高見山に抱っこしてもらった私の写真というのが実家に残っているのだが、私にはその記憶がない。ここでの高見山は一応付記しておくなら「ジェシー」のことです。



…そんなこんなで今回はここまで。次回はいよいよ「阿騎野の歌」に入って行きます。何が「いよいよ」なのかはお楽しみ。ではまたいずれ。