華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

万葉集青春ノート 巻第一 (50〜84)


万葉集巻第一 上古音とされる音韻での朗読の試み

万葉集青春ノート

はじめるきっかけ
…上古音とされる音韻での朗読の試み
巻第一 (1〜6)
…万葉集に対する複雑な感情についてなど
巻第一 (6〜24)
…額田王のこと、三山歌のことなど
巻第一 (25〜44)
…柿本人麻呂登場
巻第一 (45〜49)
…阿騎野の「かぎろひを観る会」のこと








持統天皇によって藤原京の造営に駆り出された人々が自ら歌った歌、であると題詞にはあるのだけれど、そんなふざけた話があるものか、と思う。当時の都の造営は、ヤマト朝廷によって征服された遠国の人々を駆り集めた上での無報酬の強制労働によってなされたものだった。「大宝律令」が制定されて以降の平城京の造営では形ばかりの手当も支給されるようになったらしいが、都への行き帰りの旅費は自分持ちであり、行路中に餓死する人は数しれなかったという。けれどもその労役を拒否すれば、地元で暮らしている家族が殺されるのである。そんな支配者の事業を讃える歌を、「自発的」に歌う「民衆」がどこにいるものか、と思う。ありうるとしたら、どこぞの宮廷歌人の作った自己陶酔的な歌を現場で働く人々が強制的に「歌わされた」というケースだけだろう。そういう、見れば見るほどイヤな気持ちしか湧いてこないこの歌は、よりによって「万葉集」巻第一の中で一番長い。覚えさせられることがあったとしたら、それこそ拷問だったろうなとしか思えない。

以前に長い間入院していた時、読む本がなくなって、病院に置いてあった山岡荘八の「太平記」を開いてみたことがあったのだが、「天皇がこの国を直接治めていた時代には、民は自ら作物や貢物を持ってきた。それを今の北条氏は強制的に狩り集めている」みたいなことが登場人物の言葉として大真面目に語られていて、一瞬で読む気をなくしてしまったことがある。「支配者のもとに自発的に貢物を持ってくる庶民」などというものが、どこの世界にいるものか。それにも関わらず「明治」以降の教育の中では、「天皇だけは例外だった」ということが有無を言わさず語られてきたし、またそういうことを書いた本が売れている現実がある以上、今でもそんな風に「信じて」いる人たちは少なからず存在するのだと思われる。けれどもそんな物語に「夢」を見出すことのできる人たちというのは、自分自身が人から支配された経験をまるで持たないか、もしくは他人のことを支配したくてたまらない人たちに限られているのではないかと私は思う。



「采女の」とかいった風にちょっと手を加えれば簡単に5文字にできるのに、どうして「采女の」の4文字で満足してしまえるのだろう。あー歯切れが悪くて読みにくい。あーイライラする。






「藤原の御井」なるものにまつわる伝説や伝承みたいなものは聞いたことがないけれど、藤原京のあった場所が三方を大和三山に囲まれ南に吉野山地を背負った「いい場所」だったということは、言われてみればそうだったのだろうなと思う。しかし奈良で育った人間の実感として「藤原京跡」という言葉から浮かんでくるのは、田んぼの真ん中を線路が走っているイメージだけである。平城宮跡も似たようなものなのだが。






前回ちょこっと登場した「万葉集の歌を現代風のアレンジで歌う女性デュオ」の人たちが、オープニングナンバーとして歌ってはった歌。「そーふぁーみーふぁみー、みふぁみふぁみーれれー」という輪唱のメロディがやけに心に残っている。「つらつら椿」というのは「椿の花が連なり咲いているさまの表現」であるらしく、面白い言葉だと思うが実際にそういう椿は見たことがない。「つらつらツツジ」なら、葛城山で見たことがある。



「巨勢」という万葉集に頻出する地名は、明日香から吉野川に出て紀州に向かう際に必ず通る交通の要所だったらしいのだけど、奈良と和歌山を結ぶ現在の幹線道路である国道24号線からは大きく外れているので、私は行ったことがない。「真土山」は大和と紀州の国境に位置する場所にあるのだそうで、見たことはあるはずなのだけど絵が浮かんでこない。






この四首は持統天皇が退位後に三河国に旅行した際にいろいろな人が作った歌であるらしく、「引馬野」とは現在の蒲郡市と豊橋市の間に広がっていた原野の呼び名であるとされているらしい。それにつけても気になるのは、ご当地在住の方には失礼な話ではあると思うけど、当時の支配者層がそんな大旅行団を仕立てて三河という場所まで「何しに」行ったのだろうかということである。かつて奈良から原チャリにまたがって山梨までフジロックを見に行った際、名古屋に着いた時にはそれはそれは「達成感」があった。熱田神宮とか、桶狭間とかあったし。そしてそれから何時間もかけて浜名湖に着いた時には、やはりそれなりの達成感があった。琵琶湖が「近江」なら確かにここは「遠江」だと。けれどもその中間に横たわっているかつての三河国の一帯には、そうした「達成感」を感じさせてくれるランドマーク的なものがひとつも準備されておらず、道路標識に出てくる次の街までの距離がひたすら遠かったことしか覚えていない。



Googleマップで調べてみると、当時の引馬野にあたるとされている現在の愛知県御津町には「日本列島公園」なるスケールの大きな公園があるらしいことが分かった。ひとつの「島」が丸ごと「公園」になっているらしく、奈良では考えられないようなゴージャスな土地の使い方である。とはいえその島自体が日本列島の形をしているわけでもなく、どこがどう「日本列島」なのかということは謎に包まれている。とりあえず、退位後の持統天皇一行はここを目指したのだという風に思っておくことにしようか。なお「円方(まとかた)」は現在の三重県松阪市の一帯だと考えられているとのこと。




遣唐使として中国に旅立った人たちにまつわる歌。以前北京の高校生とネットで仲良くなった際に、相手が阿倍仲麻呂の名前を知っていて、何だかジーンとさせられた経験がある。向こうでは向こうで、玄宗皇帝に気に入られてしまったために故郷の日本に帰れなくなってしまったかわいそうな人、という形で学校で教えられているらしい。

山上憶良という人は子どもへの溺愛ぶりを歌った歌で知られているので、この歌も「自分の子どもたちへの呼びかけ」だと私は思っていたのだったが、この「子ども」はそうではなく、「宴席などの場で目上の人間が目下の一同に向かって呼びかける言葉」だったとされているとのこと。そう思って見ると急にエラそーな歌に感じられてしまう。あと「御津の浜松」は「難波の遊女」の比喩表現であるという説もある。別にキライな歌ではなかったのだけど、知れば知るほどマッチョな匂いが漂ってきて、イヤな感じである。




文武天皇が藤原京を離れて二週間ほど難波宮に滞在した際に、皇族二人が詠んだという歌。難波宮はむかし日生球場のあった現在の大阪城公園南側に位置していたらしいが、あんなところで「故郷の大和を偲んで物思いにふける人」の姿を想像することは、現代では滑稽にさえ思える。そんなに大和が見たければ、鶴橋で乗り換えて25分で帰れるのだから。それにしても、鴨の背中に霜が降りているというのは、寒そうな表現である。






同じく持統天皇が退位後に難波宮に滞在した際に、宮廷人らによって詠まれた歌群。大阪城のあるところから高石市までといえば、現在の時間的な距離感からすれば奈良までの距離とそう変わらないぐらい「遠い」はずなのだけど、「難波まで出てきてしまえば一緒」みたいな感覚だったのだろうか。ビックリしたのは当時の大阪湾には「鶴」がいたらしいという記述である。「たづ」はツル科の鳥だけでなく、白鳥のような大型の鳥も広く指したらしい、と解説書にはあるが、白鳥だって私は地元では見たことがない。



同じく「吉野の宮から大和を偲ぶ歌」なのだが、吉野なんて思いっきし大和ではないかとか言っても今の感覚は通用しないものなのだろう。「呼子鳥」の正体は不明らしいものの、「托卵して子を呼び続けるホトトギス科の4種の鳥(カッコウ·ツツドリ·ホトトギス·ジュウイチ)」を指す言葉ではないかと言われている。ホトトギスはともかく、カッコウの声なんて一度も聞いたことがないな。いるのだろうか。奈良に。全く無関係な話だが、「象」という漢字に「きさ」という「訓読み」が存在しているのは、日本列島に象がいた時代の名残ではないかという説を読んだことがある。本当かよ。





さらに今度は、文武天皇が退位後に難波宮に滞在した際の歌群。長皇子という人は、「あられ打つあられ松原」とか、「わぎもこを早見浜風」とか、そういうのが好きな人だったらしい。(どんどん適当になってきている)。




難波と吉野の行ったり来たりで、文武天皇も退位後は持統天皇と全く同じ行動をとっている。多分そういう慣習があったのだろう。長屋王という人物は天武天皇の息子と天智天皇の娘を両親に持つ有力貴族で、奈良時代初期には朝廷の権力を一身に集める立場となったが、藤原氏と関係の深い聖武天皇と対立する立場となり、最後には「聖武天皇の息子を呪い殺した」という容疑をかけられて自宅を軍隊に包囲され、自殺するという末路をたどっている。「呪った」などというおよそ誰にも証明できないことを口実に軍隊を動員して大っぴらに人間を死に追い込むのだから権力者のやることというのはえげつないが、そういう人間の「勅願」によって建造されたものだと思うと、小さい頃から何度となく訪れた奈良の大仏も全然有難いものには思えなくなってくる。

私が小学生の時に建設が始まった当時における県下最大のデパート「奈良そごう」は、着工前の発掘調査によって建設予定地がその長屋王の邸宅跡の真上に当たっていたことが明らかとなり、大規模な反対運動を押し切って開業したものの、10年と経たずに倒産することになった。無駄に巨大な建物にはその後しばらくイトーヨーカドーが入っていたが、それも去年になって潰れたと伝え聞いている。けだし、呪いであろう。それにつけても、一階の中心部に待ち合わせ場所として金ピカに塗られた法隆寺の夢殿が再現され、その周りにトリュフやらトラフグやら根っこのままのワサビやらといった見たこともないような高級食材が所狭しと並んでいた「そごう」の往時を振り返ってみると、子どもで全然実感はなかったけれどあれが「バブル」というものだったのだろうなという感慨が、ふつふつと湧き上がってくる。あと、遺跡のために地下の階が建設できず、一階が食品売り場になっていたということも、今にして思えばすごく「奈良らしい」ことだったのだな。

「そごう」の他に、あの頃の奈良には3つも「遊園地」があったのだが、大阪にUSJができて以降、それらが今ではひとつもなくなっている。下の写真に写りこんでいる「アスカボウル」も、今ではもうない。私が一番「時代が変わった」ことを感じさせられるのは、今でも地元にいる友人たちからそうした話を聞かされる時である。






都を平城京に移した元明天皇が、即位の際に詠んだとされている歌。折口信夫の「口訳万葉集」には「女帝であるだけに、人民の労苦を思われる以上に、戦いを厭われる御心持ちが拝される」みたいなコメントがついているのだけど、どうなんだろう。単に「自分はかくも強大な軍事力を手にした」ということを「誇って」いるだけの歌にも感じられる。そういうのを実際に動かす権限を持った人間が歌っているのだから、そうとしか聞こえない。







平城京に都が移る時の様子を描いた歌。ここにもやはり「強制労働に駆り出された人々の姿」は出てこない。それにつけても、こうした古典作品をいろいろ読むたびに思うのは、ダム建設やら護岸工事やらが施される以前の日本の「川」というものは、今よりよほど「深い」ものだったのだろうかということである。佐保川なんて、下流の方はいざ知らず、私の住んでいた奈良市内では足首ほどの深さもなかったように思うのだけど、昔はあんな川に材木を流すことができたのだろうか。





「山辺の御井」とは三重県にあった有名な井戸の名前であるらしく、それが何で平城京の歌の後に出てくるのかいささか唐突な印象を受けるが、編者の意図としては藤原京の時にも「井戸の歌」が出てきたからここでも出しておかないとバランスが悪いと考えたのではないか、みたいなことが言われている。よく分からない。

二番目の歌は「うら寂しい思いが胸いっぱいに広がる。遠い空から降ってくる雨が流れ合っているのを見ると」的な意味であるらく、古来「傑作」との誉れが高いらしいのだが、その良さもいまいち私にはよく分からない。

三首目の「龍田山」は伊勢ではなく奈良県生駒郡にある山で、それにも関わらず「海の底」とかいう言葉が出てくる。もう、何が何だか私には全然わからない。



私の母校だった奈良県立平城高校は、近鉄京都線の高の原駅周辺に広がるニュータウンの外れに位置していた。奈良と京都の府県境にあたる場所に建設され、この歌にちなんでつけられた地名であるらしい。だから私が毎日学校の行き帰りに駅前で目にしていたのは、この歌を誇らしげに刻んだ歌碑だった。

その平城高校が、聞くところによると統廃合によって今年以降は生徒の募集をとりやめ、3年後の2022年には廃校になることが決まったそうである。思えば私が今までの人生の中で一番「万葉集」に入れあげていたのは、この学校の図書室で過ごしていた時間だった。この春になって急に「万葉集」と向き合い直さねばならないような気持ちに駆られたのは、そのニュースに触れたことが大きかったのかもしれないと今になってみれば思う。

何はともあれ、巻第一へのコメント付け作業はようやくこれで完了した。「上古音とされる音韻での朗読の試み」は巻第二以降も続けてゆくつもりだが、全部の歌についてブログで言及するという縛りはとりあえず今回までにとどめておきたいと思う。やるとすればもう少し年をとってからやるべき作業であるらしいことが、ここまで書いてきてよく分かった。「年をとったら書けなくなること」も一方ではあるはずだと思うけど、そういう領域に関しては今回までで充分書けたのではないかとも感じている。そんなわけで次回以降の「華氏65度の冬」は、久々に翻訳ブログに戻ります。ではまたいずれ。