華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

読書ノート「スローターハウス5」 (1969. Kurt Vonnegut, JR.)


ゼルダ スローターハウス

「11セント綿(めん)…40セント肉…」という不思議なフレーズで始まるこの「スローターハウス」という曲の成り立ちについて、ゼルダのボーカルだったサヨコさんは、かつて存在したそのホームページで以下のように語ってらっしゃった。(今はもう存在していない。そういうものだ)

ちほがこの曲を持ってきた時、私は読みかけのヴォネガットの「スロ-タ-ハウス5」という本を持っていた。そして手元にあったこの本の208頁を開き、検眼医の男性カルテット「ザ・フェブズ」の歌う悲しい詞にメロディをつけて、この曲を歌った。何故そのまま歌詞を変えなかったのか覚えていない。多分、このカルテットの歌詞が、あまりにもピタッとメロディに乗ったからだろう。後から私の詞も付け加えた。著者ヴォネガットの戦争体験をもとに、主人公の時間旅行というSF仕立ての設定で描かれているこの作品は、戦争という特殊な状況下における人間の滑稽な狂気を、面白おかしく書いているが、読後はホロリと感慨深くなってしまう、不思議な名作である。主人公ビリ-・ピルグリムがアメリカ人捕虜として、ドイツで収容されていた所が屠殺場5号「スロ-タ-ハウス5」だった。彼はそこでドレスデンの無差別攻撃にあう。それはとても象徴的な事の様に思える。日が暮れる。一日が暮れる。薄闇が辺りを包んでゆく。街に家に灯がつきはじめる。そんな時、私は何故か思い出す。ビリ-・ピルグリムが生肉貯蔵庫からはいあがり、すべてが焼きつくされた廃墟の街を、虚ろな目で見つめている光景を…。死の匂いがたちこめる時、狂気が人々を支配した時、しんがりは自分自身であるかもしれない。私は恐怖におののく。人類の待ち合わせの場所が、スロ-タ-ハウスにとならない事を願いつつも…。



「狂気」という言葉は「精神病者」に対する差別表現です。ここでは原文をそのまま転載しました。

以来、ずっと気になっていたその「スローターハウス5」という名前の小説を、上の文章を初めて読んでから20年近くたった今になって、ようやく手にとってみた。著者のヴォネガットという人は有名なSF作家なのだそうだが、何ぶん他の作品を読んだことがないもので、この作品にまつわる感想しかここには書けない。



ドイツ系アメリカ人だったヴォネガット氏は、上述の通り第二次世界大戦でドイツ軍の捕虜となり、収容されていた場所で「友軍」の連合国軍によるドレスデン大空襲を「被害者の立場から」経験することになる。そのことについて書きたいという気持ちを彼はずっと持ち続けていたにも関わらず、なぜか書き始めることができなかった、という事情が、「前書き」的な第一章では語られる。そして自分がこれから綴る物語が「反戦小説」であるということが、宣言されている。(もっともそれは他の登場人物から「反戦小説を書こうとしているのか?」と尋ねられてそれを否定しない、という消極的な「宣言」の仕方ではある)。なお、作者が自分の体験を23年目にしてようやく言葉にする作業にとりかかった1967年という年は、アメリカ合州国がベトナムへの「北爆」と地上軍の派遣を開始してから三年目にあたっている。

そして第二章に入り、「ビリー·ピルグリム」という名前の架空の人物を主人公として、改めて物語が幕を開ける。彼は1944年12月、アメリカ兵としてヨーロッパに派遣され、敗残兵となって雪の中を彷徨っていた時、「時間の中に解き放たれる(unstuck in time)」経験を初めて味わい、それからの人生を「けいれん的時間旅行者 (be spastic in time)」として生きることになる。1944年にいたはずが、気がつくと1920年代の子ども時代に戻っており、また気がつくと1960年代という「未来」を生きる自分になっている。それは際限なく繰り返される。自分の誕生をも死をも、彼は何度となく経験するが、そのたびに違う時間の中で目覚め、終わるということがない。そしてどの時間の中で目覚めることになるにせよ、過去も現在も未来も、変えることはできない。人生のどの場面を次に「演じる」ことになるか分からないその状態は、絶え間のない「ステージフライト」のようなものだと語られている。

それこそ「SF的な話」ではあるのだが、それを読み進めてゆく中で私が受け取ったのは、「ここに書かれていることはノンフィクションと変わらない」という印象だった。何か、想像もつかないようなショッキングな経験に襲われた時、人は誰でも「そこで時間が止まってしまったような感覚」の中で、その後の人生を送らねばならなくなるものだと思う。過去はもとより現在もそしてこれから経験する未来の時間も、その「決定的な経験」との関係の上にしか、何も意味を持ちえないものとなる。未来や今に何が起ころうと、「起こってしまった決定的なこと」は、「なかったこと」にはならない。そしてその「決定的な経験」に至るまでの過去の記憶がどんなに幸せで美しいものであろうとも、「それ」を経験させられてしまった後では、すべてが「二度と戻らない悲しい思い出」に、変わってしまう他にない。

恋人との別れから巨大な自然災害まで、「それ」になりうる出来事は無数に人間の前に口を開けているが、この小説の中では「戦争」が「それ」である。そう明記されているわけではないけれど、「そうなっている」ということは、読んだ人には自ずと分かる。そして失恋や事故や災害が「避けようのないもの」である一方で、「人間の意志」にもとづいてのみ発動される戦争というものは、本当ならばいくらでも「避けようのあるもの」であるはずなのだ。それにも関わらずそれは「起こって」しまうし、起こってしまったその後には「取り返しのつかないこと」が山のように築かれる。

「変えることができたかもしれない過去」の結果として存在している、「変えることができない現在」。その中で「生きさせられて」いることを「不条理」だと感じない人間がいるとしたら、それはそれまで自分が人生の「意味」だと思ってきたことを根こそぎ否定されてしまう「決定的な経験」を「まだ」くぐっていない人間に限られているのではないか、という気がしてしまう。そして戦争というものは疑いもなく、「そういう人間たち」によって起こされるものである。この作品に「不条理」というレッテルを貼りつけてそれで「済ませて」しまうことのできる人間たちというのもまた、「そういう人間たち」に限られているのではないか、と私は感じる。

いずれにしても、そんな風に時間というもの、あるいは歴史というものから「逃げられない」という感覚を抱えながら生きている数えきれないぐらいの人たちにとって、この小説に描かれる「時間の感覚」は極めてリアルに感じられるものなのではないかと私は思う。そしてうがったことを書くなら、それは作者のヴォネガット氏自身が、捕虜としてドレスデン空襲を体験させられて以来、「時間」に対して抱くようになった「リアルな感覚」そのものだったのではないか、という感じがする。

自分の意志にもとづかない「けいれん的な」時間旅行の中で、主人公のビリーは「トラルファマドール星人 (Tralfamadorians)」によって地球から誘拐され、かれらの星の動物園ですっ裸の状態で見世物にされる、という出来事も経験させられる。この異星人という「他者」の視点を通して、この小説の中では「時間」というものに対する「もうひとつの見方」が、以下のように提示される。

'The most important thing I learned on Tralfamadore was that when a person dies he only appears to die. He is still very much alive in the past, so it is very silly for people to cry at his funeral. All moments, past, present and future, always have existed, always will exist. The Tralfamadorians can look at all the different moments just that way we can look at a stretch of the Rocky Mountains, for instance. They can see how permanent all the moments are, and they can look at any moment that interests them. It is just an illusion we have here on Earth that one moment follows another one, like beads on a string, and that once a moment is gone it is gone forever.
私がトラルファマドールで学んだ最も重要なことは、人が死ぬ時、その人は単に死んでいるように見えるにすぎないのだ、ということだった。過去にあっては、その人はまだ極めて元気に生きている。だから人々がその葬式で泣くのは愚かしいことなのだ。あらゆる瞬間、過去、現在、未来はいつも存在し続けてきたのだし、これからもいつも存在し続ける。トラルファマドール星人たちは、例えて言うなら我々がロッキー山脈の連なりを眺めるのと同じように、あらゆる違った瞬間を一望のもとにおさめることができる。そのひとつひとつの瞬間が永遠に存在していることをかれらは見ることができるし、興味を引いた瞬間だけを取り出して眺めることもできる。我々がこの地球の上で持っている感覚、ひとつひとつの瞬間は糸に通されたビーズのように前後に連なっており、一度過ぎてしまった瞬間は二度と戻って来ないという感覚は、単なる幻想にすぎない。

'When a Tralfamadorian sees a corpse, all he thinks is that the dead person is in a bad condition in that particular moment, but that the same person is just fine in plenty of other moments. Now, when I myself hear that somebody is dead, I simply shrug and say what the Tralfamadorians say about dead people, which is "so it goes."'
トラルファマドール星人は死体を見ても、その死んだ人はその特定の瞬間において悪い状態にあるのだ、としか思わない。別の多くの瞬間では、その同じ人は元気な状態にあるのである。それで今では私自身も、誰かが死んだと聞いた時にはただ肩をすくめ、トラルファマドール星人が死者について語る言葉を口にするだけになってしまった。「そういうものだ」。

この「そういうものだ (so it goes)」という言葉が、海外サイトの奇特な人が数えたところによるならば、この本の中には106回登場する。物語の中で人間や他の生き物が死んだり命を失ったりする ー同じことだがー 場面が出てくるたびに、「そういうものだ」という言葉が添えられるのである。

While Billy was recuperating in a hospital in Vermont, his wife died accidentally of carbon-monoxide poisoning. So it goes.
ビリーがバーモントの病院で快方に向かっていた頃、彼の妻は一酸化炭素中毒で事故死した。そういうものだ。

Down in the locker were a few cattle and sheep and pigs, and horses hanging from iron hooks. So it goes.
貯蔵庫の中には、牛や羊や豚や馬が何頭か鉄の鉤に吊るされて並んでいた。そういうものだ。

Nothing happened that night. It was the next night that about one hundred and thirty thousand people in Dresden would die. So it goes.
その夜は何も起こらなかった。ドレスデンでおよそ13万の人々が命を失うことになるのは、その次の夜のことだった。そういうものだ。

執拗なまでに繰り返されるこの「そういうものだ (so it goes)」というフレーズについて、日本語版Wikipediaのこの本の紹介記事では、「死すべき運命を軽く見せ、死がありふれた事でユーモラスでさえあるかのようにしている」という評価がなされている。「戦争という特殊な状況下における人間の滑稽な狂気(原文まま)を、面白おかしく書いている」という上掲のサヨコさんの書評も、そういった感想にもとづくものなのかもしれない。けれども日本社会が「3·11」を経験し、かつ新しい戦争の発動を見据えて過去の戦争を公然と賛美する人間がここまで幅を利かせるようになってしまった「現在」に生きる人間の一人として、ここに綴られている「そういうものだ」という言葉は決して「ユーモラス」にも「滑稽」にも思えないというのが、私の感想だった。

「死」というものが「ありふれたもの」に変わってしまった現実の中で、それを目にするたびに「そういうものだ」という言葉を主人公があえて口に出して言わずにいられないのは、それを「そういうもの」として受け入れ -あるいは切り捨て- ることのできない気持ちを、彼氏がいつまでも抱え続けていることのあらわれなのである。物語の中に登場するどんな「小さな」死に対しても、消えてゆくビールの泡に対してさえも、「そういうものだ」という言葉は決して忘れられることなく、手向けられる。そのひとつひとつはそのまま「祈り」のようにも響くし、死を「そういうもの」として受け入れた上で自分は生きてゆかねばならないという、主人公自身の「決意表明」であるようにも響く。決して単なるニヒリズムやシニシズムと言った言葉で切り捨てることのできないそれは感情だと思うし、「生」というものに対する極めてげんしゅくな向き合い方だと私は思う。実際、自分の力ではどうすることもできない他者の死というものと向き合うことになった時、人間には他にどんなことが言えるだろう。「そういうものだ」という7文字がよしや般若心経262文字に変わったところで、内容に大した違いのないことは以前の記事でも見た通りなのである。

雪に覆われた敵地を彷徨う中で「時間からの解放」を経験したビリーは、やがてドイツ軍に捕えられ、貨車に詰め込まれて収容所に送られる。その過程でも無数の悲惨や残虐さをかれは目の当たりにすることになるけれど、雪の中での経験以来、既に自分の人生のあらゆる場面を目にしてしまった彼の視点からは、「自分が捕虜だった頃」のその出来事が、現在進行形であるにも関わらずあたかも「他人事」であるかのような筆致で語られる。悲惨な出来事の描写も残虐な出来事の描写も、どれも極めて淡々としていて、客観的である。目の前の現実を「他人事」のように「やり過ごす」ことは、その時の彼氏にとって「自分を守る」ためにとることのできた唯一の「方法」だったのではないか、と私は感じた。自分では無意識なうちに気がつけばいろいろな時間の中を生きている、という彼が身につけた病気と言うか能力と言うかについても、メカニズムは不明ながら彼の身体が本能的に選択した「自衛手段」だったのではないかという印象を受けたし、本当にそんな感覚の中で生き(続け)ている人たちというのは、実際にいたって決して不思議ではないと思う。

私がこの小説を「ただの小説ではない」と確信するに至ったのは、ビリーが有蓋貨車で捕虜収容施設に移送されてきた瞬間の、以下のような記述を目にした時だった。

Listen-on the tenth night the peg was pulled out of the hasp on Billy's boxcar door, and the door was opened. Billy Pilgrim was lying at an angle on the corner-brace, self- crucified, holding himself there with a blue and ivory claw hooked over the sill of the ventilator. Billy coughed when the door was opened, and when he coughed he shit thin gruel. This was in accordance with the Third Law of Motion according to Sir Isaac Newton. This law tells us that for every action there is a reaction which is equal and opposite in direction.
This can be useful in rocketry

聞きたまえ-10日目の夜になって、ビリーの貨車の掛金からかんぬきが抜かれ、ドアが開かれた。ビリー·ピルグリムは筋交いに自ら磔になった姿勢で横たわり、青白い象牙色の指を通気孔の枠にかけて、体を支えていた。ドアが開いたとたん、ビリーは咳をした。そして咳をしたとたん、うすい粥のような便をもらした。サー·アイザック·ニュートンによれば、この現象は、運動の第3法則に従うものである。つまり、あらゆる運動には常に、方向が逆向きで大きさの等しい反作用がともなう。
この法則は、ロケット工学に役立てられている。

…それまでどんなにロケット工学というものを素晴らしいと思っていた人でも、こうした唯物論的事実を突きつけられてしまった後では、それが咳と同時に下痢便を漏らしてしまうような現象と同等の「意味」しか持っていないことに、気付かされずにはおかないことだろう。それをもう一度「素晴らしい」と思えるようになることがあるとすれば、それは少し体が弱っただけで咳と同時に下痢便を漏らしてしまうような頼りなくて儚い人間という生き物のことを、それだからこそ「素晴らしい」のだと本気で思えるようになった時に、限られていることだろう。

ヴォネガットという作家の文体は、そういった強靭なヒューマニズムを感じさせてくれるものからは、程遠い。けれども少なくともこの人は、人間の「弱さ」というものを否定したり嫌悪したりするタイプの作家ではない。それを「そのまま」見つめようとする視線の中には、疑いなくある種の「やさしさ」と「まじめさ」とが存在している。重たいシーンしか出てこないような物語なのに、読んでいて絶望的な気持ちにはならないのは、そのことによっているのだと思う。他の人のことは知らないけれどこの本を読み終えた時に私の中に残ったのは、「救いのない気持ち」では決してなく、むしろ「げんしゅくな気持ち」と呼ぶべきものだった。

この本がどういう本であるかは、前書き代わりの第一章の中に作者自身の言葉で綴られているし、そこに書かれていることを、私は好きだと思った。気に入った一節を、引用しておきたい。

The sun was risen upon the Earth when Lot entered into Zoar, I read. Then the Lord rained upon Sodom and upon Gomorrah brimstone and fire from the Lord out of Heaven; and He overthrew those cities, and all the plain, and all the inhabitants of the cities, and that which grew upon the ground.
ロトがゾアルに着いた時、太陽は地上に昇った。(聖書には)そう書いてあった。そして主はソドムとゴモラの上に天から硫黄と炎の雨を降らし、これらの街と、すべての平地と、街のすべての住人と、その地に育ったもののすべてを滅ぼした。

So it goes.
そういうものだ。

Those were vile people in both those cities, as is well known. The world was better off without them.
周知の通り、このふたつの街に住んでいたのは邪悪な人間ばかりだった。かれらがいなくなったおかげで、世界はよくなった。

And Lot's wife, of course, was told not to look back where all those people and their homes had been. But she did look back, and I love her for that, because it was so human.
そしてロトの妻は、すべての人々がいてその家のあったところを振り返ってはならないと、もちろん命じられてはいた。けれども彼女は振り向いた。そして私は、だからこそ彼女のことを愛する。それこそ人間的な行為だと思うからだ。

She was turned to a pillar of salt. So it goes.
彼女はそのために塩の柱にかえられた。そういうものだ。

People aren't supposed to look back. I'm certainly not going to do it anymore. I've finished my war book now. The next one I write is going to be fun.
人は振り返ってはならないものだとされている。私ももう二度と振り返らないつもりである。私はとにかく戦争についての自分の本を書きあげた。次に書く本は楽しい本にしたい。

This one is a failure, and had to be, since it was written by a pillar of salt.
この本は失敗作だ。そしてそうなる他はなかった本である。この本を書いた人間は塩の柱なのだから。

…そしてその本を読み終えた私は、「スローターハウス5」が「失敗作」であるとは全く思わない。たとえそこに書かれている通り、過去と現在と未来のすべては「変えることのできないもの」で、人はその中に「囚われて」生きる他にない存在なのだったとしても、そうやって生きている人間が自分だけではなかったのだということをこの本を通じて初めて「知る」ことのできた人がいたとしたなら、それは紛れもなく「新しいこと」だし、その人を勇気づけることであると思う。そしてそうした人にとってこの本は間違いなく「いい本」だと思うし、私自身、そう感じた一人である。

いずれにしても、今この時代に今このタイミングで読んでおくことができて良かったと思った本だった。そう思ったことを忘れずにいるために、ブログに書き残しておくことにしたい。ではまたいずれ。


アンジー 風のブンガ



スローターハウス5 (ハヤカワ文庫SF ウ 4-3) (ハヤカワ文庫 SF 302)

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