華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Bullet the Blue Sky もしくは青空に風穴 (1987. U2)



2019年の最初にこのブログで取りあげた歌は、U2の「Where The Streets Have No Name」だった。「With Or Without You」に関してだけはずいぶん早い段階で取りあげていたものの、今年(19年)はU2も来ることだし、自分にとって最も思い入れの深いアルバムであるところの「Joshua Tree」の全訳を完成させることから新しい一年をスタートさせよう、といったような、それなりに遠大なことを当初は考えていたのである。しかしながら3曲目でちょっとばかり脱線したところでその脱線が止まらなくなり、脱線どころかそちらが本線になり、その先に広がっていた風景の圧倒的な豊かさに目くるめいている間に2019年はさっさと終わってしまい、U2もとっくの昔に帰ってしまっていた。来日は12月だから書こうと思えばいつでも書けると、後回しにし続けていたのが甘かったのである。締まらない形にはなるけれど、とりあえず2020年は昨年やろうとして果たせなかったその試みを、虚心坦懐に引き継ぐところから始めて行きたいと思う。とはいえ、また何曲かやったところで脱線が始まることになったとしても、それは私の責任の及ぶところではない。新しい出会いというものは、いつも歴史に対して垂直に立つ形で訪れる。それをあらかじめ予定に組み込んでおくようなことは、できない相談なのである。

今回取りあげる「Joshua Tree」の四曲目、「Bullet the Blue Sky」は、U2の数ある楽曲の中でも最もストレートな「反戦歌」として知られている曲である。もっとも私自身は「戦争を忌避すること」と「戦争に反対すること」とは「違うこと」だと考えている人間なもので、「厭戦」のメッセージしか込められていないこの歌のことを「反戦歌」と呼ぶことには違和感があるのだが、それが「ストレート」であるというゆえんは、「アメリカ」を名指しで非難の対象にしている点にあるのだと思う。

関係資料によるならば、この歌は1985年、ボノがパートナーのアリさんと共に当時革命戦争のさなかにあったニカラグアとエルサルバドルを旅行した際、エルサルバドルの山中でゲリラ戦士たちのグループと何日か生活を共にし、そこで見聞したこと、とりわけ内戦に介入したアメリカ軍による住民虐殺の実態に憤って、他のメンバーたちにも働きかけ、作られた曲であるのだという。

「阪神タイガースの優勝とグリコ森永事件」を通じてしか私の記憶の中に残っていない1980年代という時代は、70年代における「ベトナムの勝利」に力づけられ、それまで「第三世界」と呼ばれてきた諸国、なかんづくラテンアメリカにおける民衆運動や革命運動のうねりが、かつてない勢いで巻き起こっていた時代でもあった。当時における中南米諸国では、ほとんどどの国においても、アメリカ合州国と結んだ一握りの富裕層によって政府と軍部が形成され、その横暴に反対する人々は秘密警察や富裕層の抱える私兵集団によって日常的に誘拐されたり暗殺されたりという、文字通りの恐怖政治が横行していた。(「していた」と過去形で書いたが、多くの国においてはこの21世紀においても当時と変わらぬ現状が続いていることに、ニュースを注意深く読む人であれば誰もが気づいていることだろう。また我々自身の暮らす日本という国が「そういう国ではない」という前提に立って他国における人々への弾圧を「他人事」のように語ってみせる態度も、私に言わせるなら相当に「お気楽な」ものであると思う。この2020年の年明け早々に遺体で発見された三宅雪子元代議士の死因は、果たして本当にマスコミが伝えているように「本人の意思にもとづく自殺」だったのだろうか)

スペインによる植民地支配から1821年に解放されたエルサルバドルにおいては、その後も19~20世紀を通じ、「14家族」と呼ばれるスペイン系の名門一族が、コーヒーや綿花の大農園をはじめとした富の源泉を独占して、大多数の民衆への圧制を継続させていた。数百年にわたり有形無形の抵抗を続けてきたエルサルバドルの民衆は、1979年に近隣国ニカラグアの民衆がサンディニスタ革命(この出来事の詳細についてはクラッシュの同名曲を取りあげる際に触れることにしたいと思う)を勝利させた勢いに乗り、翌80年秋、半世紀前の抵抗運動の指導者の名を冠した革命軍としての「ファラブンド·マルティ民族解放戦線(FMLN)」を結成して、政府に対する武装闘争を開始した。まるで「ワンピース」とかそういうマンガにでも出てきそうな話であるけれど、実際にはマンガの方が現実の歴史を追いかけているのである。違うのはそれが簡単には勝てなかったり、そこで死んだ人は二度と戻ってこなかったり、一度負けたらそれまで以上の苦しみがその後何十年にもわたって続くことになったりすること。「それでも戦う」道を、エルサルバドルの人々は選んだのだった。

そうした抵抗運動は当時のラテンアメリカのほぼ全域で湧き起こっていたにも関わらず、それらがことごとく「勝てなかった」こと、また現代に至っても勝てずにいることの最大の要因は、ひとえにそれぞれの国の富裕層や特権階級が「アメリカのうしろだて」によって支えられているからに他ならない。キューバ危機以来、アメリカは「合州国の裏庭」にあたる中南米の革命運動を圧殺するため、各国にグリーンベレーを派遣して極右テロ組織を育成したり、「内戦」に介入して直接民衆に銃口を向けたりと、あらゆる残虐行為に手を染めてきた。それと全く同じことはアジアにおいても、朝鮮半島において、ベトナムにおいて、繰り返され続けていたのだということ、そして日本という国家は第二次大戦後一貫してそれを最も強力に支持するところの「アメリカの同盟国」であり続けてきたのだということは、我々が「日本人として」知っておかなければならないことであると思う。

それにも関わらず、「人間が人間を支配する世界」への叛逆を掲げて戦い続ける人々は、時代が21世紀を迎えた現在においても、地球の至るところに無数に存在している。マンガや音楽に心を動かされるのは素晴らしいことではあるけれど、そうした「現実の人間の営み」はそれより遥かに直接に、人間の心を揺さぶる力を持っている。

個人的な思い出の話をさせてもらうなら、自分が高校を卒業する直前の1996年12月、ペルーの左翼ゲリラが仲間の釈放を要求して日本大使公邸を占拠した出来事のことを、私は忘れることができない。人質にした「要人」たちを誰ひとり傷つけることなく、1ヶ月以上にわたって籠城を続けた「トゥパク·アマル革命運動(MRTA)」の人々は、最後には当時ペルーの大統領だったフジモリが騙し討ちで送り込んだ特殊部隊によって皆殺しにされ、当時の日本の首相だった橋本龍太郎はそれを称賛する談話を発表した。中島みゆきという人は、突入作戦にあたって「返り討ち」にされた特殊部隊の兵士のことを悼む歌を歌ったりもしていた。けれども、当時大学受験の真っ只中だった私の頭に渦巻いていたのは、「何で?」という言葉だった。何で、ペルーでは、自分と年も変わらないような若者たちが、あんな恐ろしげな行動に立ちあがって、あんな悲惨な殺され方をしなければならないことになっているのだろうか。その自分と変わらないような年の若者たちが皆殺しにされたことを、何で世間は「よろこんで」いるのだろうか。何で自分は、「それと同じ日本人」なのだろうか。何で、大学受験なんて、やっているのだろうか。その答えも見えてこないのに、何で大学になんか、行く意味があるのだろうか。

じゃあ、でも、自分は、どうしたらいいのだろうか。どうやって生きていけばいいのだろうか。

そのとき芽生えた問いには結局今になっても、答えを出せているわけではない。けれどもそれからラテンアメリカの民衆運動に関する本は、ずいぶん読んだ。「サンディニスタ」の戦いやエルサルバドルの人々の戦いについても、その中で「出会いなおす」ことになった。今ではもう絶版になっているらしいけど、岩波新書から出ていた「燃える中南米」という本は、21世紀を生きる若い皆さんに対しても、当時の息吹を伝えるよすがとして、お勧めできるものであると思う。

燃える中南米―特派員報告 (岩波新書)

燃える中南米―特派員報告 (岩波新書)

  • 作者:伊藤 千尋
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1988/05/20
  • メディア: 新書


2020年台の最初の年は、アメリカによるイラン正規軍司令官の暗殺作戦の強行により、全面戦争の危機の中でその幕を開けることになった。「国家と国家との戦争」が発動されるのは、「国家に対する民衆の戦い」が敗北するときである。けれどもその戦いはたとえ局地的に圧殺されることがあったとしても、世界のあらゆる場所に、そしてあらゆる瞬間に、存在し続けている。

その火が絶やされることのない限り、希望が失われることはないということを、私は確信している。


Bullet the Blue Sky

Bullet the Blue Sky

英語原詞はこちら


In the howlin' wind
Comes a stingin' rain
See it drivin' nails
Into the souls on the tree of pain

うなり声をあげる風の中で
刺すような雨が降り始める
突き刺さってゆく
何本もの釘が見えないか
苦しみの木の上で
生贄に捧げられている
いくつもの魂の中心に向かって


From the firefly
A red orange glow
See the face of fear
Runnin' scared in the valley below

中空に浮かぶ蛍から放たれる
強いオレンジの閃光
恐怖にゆがんだ顔が見えないか
眼下の谷を
逃げまどっている顔が


Bullet the blue sky
Bullet the blue sky
Bullet the blue
Bullet the blue

弾丸だ
青空に
弾丸だ
青空を
弾丸
青に
弾丸
青を


In the locust wind
Comes a rattle and hum
Jacob wrestled the angel
And the angel was overcome

イナゴの風に包まれて
ガシャつく音がやってくる
ヤコブは天使と格闘し
そして天使は打ち負かされた


You plant a demon seed
You raise a flower of fire
We see them burnin' crosses
See the flames, higher and higher

おまえたちは悪魔の種をまき
火炎の花を育てる
やつらがいくつもの十字架に
火を放つのが見える
高く高く上がる炎が
ぼくらには見える


Bullet the blue sky
Bullet the blue sky
Bullet the blue
Bullet the blue

弾丸だ
青空に
弾丸だ
青空を
弾丸
青に
弾丸
青を


Suit and tie comes up to me
His face red like a rose on a thorn bush
Like all the colours of a royal flush
And he's peelin' off those dollar bills
(Slappin' 'em down)
One hundred, two hundred

背広とネクタイ姿のやつが
にじり寄ってくる
トゲだらけの薮に咲いたバラみたいに
そいつの顔は赤い
ポーカーのロイヤルフラッシュの色を
全部集めたぐらいに赤い
そしてそいつはドル札を数えては
叩きつけてみせる
100!200!


And I can see those fighter planes
And I can see those fighter planes
Across the mud huts as children sleep
Through the alleys of a quiet city street
And take the staircase to the first floor
Turn the key and slowly unlock the door
As a man breathes into his saxophone
And through the walls you hear the city groan
Outside, it's America
Outside, it's America
America

そしてぼくには戦闘機の編隊が見える
そしてぼくには戦闘機の編隊が見える
子どもたちの眠っている
泥壁の家々の間を横切り
静かな街区の横丁をいくつも通り抜け
階段を上がって二階に行き
ゆっくりとカギを回して
ドアを開けるんだ
一人の男が
サキソフォンに息を入れるのに合わせて
いくつもの壁の向こうから
街がうめき声をあげるのが聞こえるだろう
外は
アメリカだ
外にいるのは
アメリカだ
アメリカ


See across the field
See the sky ripped open
See the rain comin' through the gapin' wound
Pelting the women and children
Who run into the arms
Of America

見ろ
大地の彼方から
空が引き裂かれ
口を開けた傷口から降り注ぐ雨が
女たちや子どもたちの体に
叩きつける
逃げまどう人々が
走り込むのは
アメリカの腕の中

=翻訳をめぐって=

See it drivin' nails
Into the souls on the tree of pain

「tree of pain」というのは直訳すると「痛みの木」という意味になるが、調べてみるとこれはケルト神話の中に、即ちアイルランドに暮らす人々の間で紀元前の大昔から語られてきた伝承の中に登場する、「木の名前」であるらしい。もっともそれが「どういう木」であるのかということについては、ネットで調べただけではよく分からなかった。ある資料ではキリスト教で言うところの「生命の樹」もしくは「世界樹」の対極に位置づけられる「死を象徴する概念」であるといったような説明がなされていたし、またある資料には大昔の呪術師たちが人に呪いをかける時の道具として使っていた木の名前だと書かれてあったし、またケルト神話を下敷きにしたアメリカの有名なSFシリーズの中では、この「tree of pain」がその枝という枝にモズのハヤニエよろしく生きた人間が串刺しにされている恐ろしげな表象として描き出されているのだという。

ボノがどのようなイメージを込めてこの言葉を使ったのかということは本人にしか分からないが、その上に複数形のsoul(魂ないし個人)が釘付けにされているという描写は、三つ目の二次創作の中のイメージと合致しているし、また日本の「丑の刻参り」みたいな「呪い」のイメージともある程度重なっていると考えていいのだと思う。だからそうした「絵」が浮かび上がってくるように、「生贄に捧げられている」という補訳詞を青字で挿入しておくことにした。

そのことの上で、敬虔なクリスチャンとして知られるボノが「木に釘付けにされる生身の人間」のイメージを歌詞の中に登場させている以上、そこにはやはり「十字架にかけられたイエスの姿」も同様に投影されているのであろうことが感じられる。つまりこの歌において、帝国主義の手で殺されてゆくエルサルバドルの民衆の姿には、ボノによって「人類全ての罪を背負って死んでゆく聖なる犠牲」といったような「意味づけ」が行われているということが、言えると思う。「そういうボノ自身はどういう立場からモノを言っているつもりなのか」ということが、私自身にはどうしても気になってしまうのだけれど。

なお、「tree of pain」で画像検索してみたところ、最も多く出てきたのは下のような「タトゥーの図柄」の呼び名としてのイメージだった。こうした図柄が大昔から存在しているのか、それとも単に刺青の図柄だから「痛みの木」と呼ばれているのかといったようなことは、調べ方が足りないのかもしれないけれど、よく分からない。

From the firefly
A red orange glow

「firefly(ホタル)」にたとえられているのは、「軍用ヘリコプター」の姿なのだという。つまりこの歌詞に描き出されているのは真夜中の光景だということになるのだと思う。「red orange glow」とは、そのヘリから撃ち出される曳光弾やミサイル、ないし機銃掃射の際に放たれる閃光の描写であろう。

ヘリコプターという「兵器」が本格的に「実用化」されるようになったのはベトナム戦争以降のことだと聞いているけれど、高速で飛行する戦闘機が一つの地域に数発の爆弾しか落としてゆくことができないのに対し、ヘリコプターは空中で静止しながら確実かつ「効率的」に一地域への破壊攻撃を集中させることができるし、その「効果」を「目視」によって「確認」することもできる。「戦争の手段」と言うよりはむしろ「支配の手段」の究極形態として開発されたのが、こうした「近代兵器」の実態であるのだと思う。そしてこうした殺戮の形態が「最新技術」であった時代すら、現代では既に40年前の出来事になっている。

See the face of fear
Runnin' scared in the valley below

「the valley below」はディランの「コーヒーもう一杯」という歌にも登場するフレーズで、私はそれを「谷底」的な意味合いの言葉だろうと思っていたのだけど、そうではなく、正確には「語り手から見て下(below)のほうにある谷」という意味になるらしい。なので「眼下の谷」と訳したが、してみると「語り手」のボノは人々の逃げまどうその「谷」を「上から見おろして」いることになる。

それでいいのか。と私は感じる。

Bullet the blue sky

「Bullet in the blue sky」ならば、歌詞カードの和訳に記載されている通り、「青空に弾丸」ないし「青空の弾丸」という意味になる。けれどもこの歌詞に前置詞はない。ということはどういうことかというと、英語話者の耳にこの「Bullet」という言葉は「他動詞の命令形」みたいに聞こえているはずなのである。あえて直訳するなら「青空をbulletしろ」「弾丸しろ」といったような感じになる。

「青空をbulletしろ」とは、どういうことを要求しているのだろうか。「青空を撃つ」こと、「青空を弾丸で埋めつくす」こと、「青空そのものを一個の弾丸へと変化せしめる」こと、そうしたいろんなイメージがないまぜになった「奇妙な響きの言葉」として、たぶん英語話者の耳には、聞こえているのだと思う。

「名詞を動詞として使うこと」それ自体は、日本語表現の中でも言葉の使い方として、ありえないことではない。パチンコ好きの人ならば誰でもその名を知っているであろう「緋弾のアリア」というアニメの主人公の人は、「風穴開けるよ!風穴風穴風穴!」と絶叫しながら両手に持った銃を乱射するのを得意技にしているのだけれど、この「風穴!」を英訳するならさしずめそれが「Bullet!」になるのだと思われる。「Bullet! Bullet! Bullet!」スヌーピーのマンガの擬態表現なんかに、いかにも使われていそうな文字列ではある。

余談ながらスヌーピーのマンガにしょっちゅう出てくる「sigh」という文字列を、「あーあ」とか「ちぇっ」とかでなく「タメイキ」と翻訳してみせた谷川俊太郎という人の日本語センスは、いかんせんやはり大したものだと大昔から感服している。本当に余談になっちゃったけど。

In the locust wind
Comes a rattle and hum

「locust」という単語をめぐっては、これまたディランに「Day Of The Locusts」という歌があり、それに「せみの鳴く日」という邦題がついていたことから、「セミ」を意味する言葉なのだと私はずっと思い込んでいた。ところが改めて調べてみると、元々は「イナゴ」を意味する言葉なのだという。セミを意味する英単語は基本的には「cicada」なのだが、アメリカ英語ではしばしば「locust(イナゴ)」という言葉で「セミ」を表現することが、おこなわれているらしいのである。

イナゴとセミをいっしょくたにするなんてずいぶん無茶な話だと思うが、考えてみれば我々関西人も「アブラムシ」という言葉を「アリマキ」に対してのみならず「ゴキブリ」に対しても使っていたりするから、ありうると言えばまあ、ありうる話なのかもしれない。いずれにしても結論的に言うならば、ディランの歌に出てくる「locust」はセミのことであっても、この歌に出てくる「locust」はイナゴのことなのである。それをまず、頭に入れておかねばならない。

頭に入れた上で、キリスト教的には「イナゴ」というのは、古くはモーセの民を虐げるエジプトの王を懲らしめるために「神」によって送り込まれ、またいつか訪れる「最後の審判」の際には悔い改めない者たちを罰するために再び送り込まれるであろうと言われているところの、「人間社会を襲う破滅の象徴」なのである。してみるとディランという人は「Day Of The Locusts」という歌のタイトルに「セミの鳴く日」と同時に「破滅の日」という「もうひとつの意味」をも含ませていたことになるわけで、うわっと私は思ったのだったが、それはその歌の記事を書くときに書けばいいことなので、ここでは詳述しない。

この歌においては、ボノは「イナゴのイメージ」を「聖書に書かれている通りの意味」で「使って」いるのだと思う。海外サイトにおいては、編隊を組んで襲ってくる軍用ヘリコプターの姿が「イナゴの大群」になぞらえられているのではないかということが指摘されていた。「rattle and hum=ガシャつく音」は「破滅の擬音表現」として、「魂の叫び」という邦題のついたU2の有名なツアータイトルにも使われている。

Jacob wrestled the angel
And the angel was overcome

「ヤコブが天使と格闘して勝った」というのは、聖書に記載されている伝承をそのまま引き写したものであるにすぎない。しかしその伝承をどう解釈すればいいのかということは、かなりな難問である。

32:23その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。 32:24皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、 32:25ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。 32:26ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。 32:27「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」 32:28「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、 32:29その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」 32:30「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。 32:31ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。

…以上が新共同訳聖書の「創世記」の当該部分の引用なのだけれど、なぜ神(天使?)が闇夜にいきなり現れてヤコブという人に格闘を挑んできたのか、そのことが全然書かれていないし、それ(神?天使?)が「人間に打ち負かされる」というのは「神を信じる立場」からすれば「どえらいこと」であるはずなのだが、別にどえらいことであるようにも、書かれていない。ただ「イスラエル」という氏族の名前と「ペヌエル」という地名の由来とが、淡々と綴られているだけである。


「イスラエル」の子孫を以て任じている人々は、この伝承を「自分たちの祖先は神と戦って勝った人物だ」という「誇り」を込めて語ってきたに違いないはずだと思うのだが、この歌においてボノはそれとは逆に「神が打ち負かされてしまった」ことへの嘆き、あるいは「神を打ち負かしたと信じ込んでいる人類の傲慢さ」への非難みたいな気持ちを込めて、このエピソードを引き合いに出しているのではないかということが、何となく感じられる。とはいえ彼氏が何を言いたいのかということは、やっぱりよく分からない。「言ってない」わけだから。

Suit and tie comes up to me
His face red like a rose on a thorn bush
Like all the colours of a royal flush
And he's peelin' off those dollar bills

ここに出てくる「スーツとネクタイ姿でドル札を数える男」は、当時のアメリカ大統領であり、エルサルバドルでの虐殺の直接の下手人にあたるロナルド·レーガンのことを揶揄しているのだろうと、海外サイトでは分析されていた。

And I can see those fighter planes
And I can see those fighter planes
Across the mud huts as children sleep
Through the alleys of a quiet city street
And take the staircase to the first floor
Turn the key and slowly unlock the door
As a man breathes into his saxophone
And through the walls you hear the city groan
Outside, it's America
Outside, it's America
America

「歌詞で描かれた絵画」みたいな部分であり、言葉で説明しなければならないようなことは、特にないのだと思う。ただ、この部分を作っている時ないし歌っている時、ボノは間違いなくドアーズの「The End」を意識していたのだろうなということは、言えると思う。

「Outside, it's America」というフレーズは、「外の世界にはアメリカ(軍)がいる」とも解釈できるし、「外の世界はアメリカという土地(に組み込まれた状態)である」とも解釈できる。「聞く人が聞こえる通りに解釈すればいいフレーズ」になっているのだと思う。悲しいのは我々日本語話者には「聞こえる耳」がないことである。

See across the field
See the sky ripped open
See the rain comin' through the gapin' wound
Pelting the women and children
Who run into the arms
Of America

「人々が逃げ込むのはアメリカの腕の中」というのが具体的にどのようなことをさしているフレーズなのかということは、よくわからない。アフガンやイラクにおいて繰り返し示されてきたように、爆弾と一緒に「救援物資」を投下して「人道支援」を行なったと強弁してみせたりするのがアメリカという国家の一貫したやり口であるわけで、あるいはそうした欺瞞がここでは告発されているのかもしれない。もしくはさらに具体的に、アメリカが直接運営する避難施設あるいは救護施設みたいなものが、当時のエルサルバドルではいくつも建設されていて、米軍の攻撃が始まったら住民はそこに逃げ込むように「指導」されていた、みたいなことも、あったのかもしれない。アメリカにそういうことをやる理由があったとすれば、「民間人は攻撃しない」というアリバイづくりのためと、「民間人」の中から反政府組織への同調者をあぶり出して孤立させるためでしかありえなかったはずではあるが、それが分かっていたとしても、当時のエルサルバドルの人々は、「死なないため」には「敵」であるアメリカに「保護」を求めるという「屈辱」に甘んじざるを得ない状況に置かれていた。そうした「悲惨」を告発する内容がここでは歌われているという解釈で、まず間違いはないのだと思う。

けれどもここに「逃げまどう人々」としか描写されていないボノの目に映った「民衆」の中にも、実際には「いろんな人」がいたはずなのである。本当は自分も山に入ってゲリラと一緒に戦いたいけれど、家には病人や子どもがいるから飛び出すわけにもいかない。だから攻撃が始まったら「米軍の保護」のもとに逃げ込む「屈辱」を受け入れるしかないが、それならせめて「敵の情報」をひとつでも多く盗み取り、山で戦っている家族や恋人に届けてやりたい。そうした思いで必死に「猫をかぶっている」避難民がきっとそこには大勢いたことだろうし、あるいはそうした「敵対分子」を一人でも多く摘発して米軍に売り渡すことで自分だけが生き延びようと画策する本物の卑怯者も、同じ「民間人」の中には大勢いたことだろう。自分が実際にその中の一人になって、その上で「自分はどう生きるか」という問題に自分の人生をかけた答えを出すことをしない限り、「何が正しいのか」を他人の立場から勝手に決めつけることなんて、できるはずがないのである。

それにも関わらず、その「いろいろな人々」の「いろいろな立場」と正面から向き合うこともせず、「逃げまどう悲惨な人々」という言葉で一括りにして「片付けて」しまうことのできるボノの態度を、私は傲慢であると思う。

彼氏は「民衆」をひたすら「無力な存在」としてしか描かないが、それに甘んじることを拒否して「戦う民衆」の姿にも、「出会って」いなかったはずはないのである。それなのにその存在を「スルー」することができるのは、それが彼氏にとっては「手に余る存在」だったということを示している。「民衆」というものが「無力」で「悲惨」な存在である限りにおいて、彼氏はそれに「同情」し「あわれみ」をかける立場に甘んじ続けることができるわけなのだし、その意味で「民衆が無力であること」は「彼氏の表現」にとって「必要なこと」になっているわけなのである。

そんなことが、あんたのしたいことだったのか。と私としては言いたくなるし、また「民衆」というものをなめるな、とも言いたくなる。

それは私自身が「アーティストの側」ではなく「民衆の側」に立ち、かつ「無力な存在」に甘んじることをも拒否して生きてゆくために、「必要なこと」なのである。

…というわけでこうした傲慢な歌に「共感」していた自分自身の青春に対しても、年頭まずは決着をつけることができた気がしている。いずれにしても、政治家であれマスコミであれミュージシャンであれ、「民衆」のことを「無力で悲惨な存在」であるかのように言いたがる人間が現れたら、それは反射的に「怒っていい」ことなのだし、また「怒るべき」ことなのだ。その感覚をこれからはいっそう、研ぎ澄まして行かねばならないと思う。

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最近は朗読ばかりやっていたもので約1ヶ月ぶりの記事になってしまったが、再開してみると文章を書くという作業は朗読という作業より遥かにエネルギーを必要とするものだということを、今さらながら思い知らされている。でも、がんばります。ではまたいずれ。


=楽曲データ=
Released: 1987.3.9.
Key: F♯