華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

In God's Country もしくは砂漠に赤いバラ (1987. U2)


In God's Country

In God's Country

英語原詞はこちら


Desert sky
Dream beneath a desert sky
The rivers run but soon run dry
We need new dreams tonight

砂漠の空 荒野の空
その下に開く夢
川は勢いよく走る
けれどもすぐに干あがってしまう
わたしにもあなたにも
この夜
新しい夢がいくつも必要だ


Desert rose
Dreamed I saw a desert rose
Dress torn in ribbons and in bows
Like a siren she calls to me

砂漠のバラ
荒野に咲くバラを
夢に見た気がした
ずたずたに切り裂かれたドレス
セイレーンのように
サイレンのようにその女性は
わたしのことを呼ぶのだった


Sleep comes like a drug
In God's country
Sad eyes, crooked crosses
In God's country

眠りは麻薬のように訪れる
それが神の国
悲しい瞳に
ねじ曲げられた十字架
それが神の国


Set me alight
We'll punch a hole right through the night
Everyday the dreamers die
To see what's on the other side

火をつけてほしい
この身を輝かせてほしい
わたしたちは夜の天井に
風穴を空けてやるのだ
毎日のように
夢追い人たちが死んでゆく
向こう側には何があるのかを
見届けるために


She is liberty
And she comes to rescue me
Hope, faith, her vanity
The greatest gift is gold

そのひとは自由の女神
そしてわたしのことを
助けに来てくれる
希望と
信心深い気持ちと
そしてその虚栄心
この世で最もすばらしい贈り物は
黄金なのだとか


Sleep comes like a drug
In God's country
Sad eyes, crooked crosses
In God's country

眠りは麻薬のように訪れる
それが神の国
悲しい瞳に
ねじ曲げられた十字架
それが神の国


Naked flame
She stands with a naked flame
I stand with the sons of Cain
Burned by the fire of love
Burned by the fire of love

裸火が燃える
むきだしの炎とともに
そのひとは立っている
わたしは
カインの末裔たちとともに立つ
愛の炎に焦がされながら
愛の炎に焦がされながら

=おぼえがき=

タイトルの直訳は「神の国にて」。「神の国」などと言われると私の脳裏に真っ先に浮かぶのは森喜朗の「日本は天皇を中心とした神の国」発言であり、胡散臭くて邪悪なイメージしか湧いてこないのだけど、クリスチャンであるU2の面々にとってはそれほどネガティブな言葉だというわけでも、ないのだと思う。むしろ自分たちの音楽が究極的に目標とするところはこの地上に本当に「神の国」を実現することだぐらいの気持ちでそれこそ、頑張ってはる人達であるのだと思う。とはいえ信仰を持たない私には、キリスト教で言うところの「神の国」の概念と、戦前の日本の小学生が暗唱させられていた「ニッポンヨイクニ キヨイクニ セカイニヒトツノ カミノクニ」というフレーズに込められた選民思想的なそれとが、「違う何か」であるようには到底思えない。
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それはそれとした上で、この歌に歌われている「神の国」とは、その独立宣言に「神の摂理による保護」という言葉を掲げ、新しい大統領が就任する際には必ず聖書に手を置いて宣誓をおこなう国=アメリカのことである。歌詞には別に、それを讃えるような言葉が並んでいるわけではない。むしろその実態はこんなにも腐敗しているではないか、ということを暴き立てる内容になっている。そんな国が「神の国」を自称するとは、という皮肉と言うよりむしろこの場合、「まじめなクリスチャン」としての義憤のような気持ちがまずボノという人の中にあって、そこから書きあげられた曲であるのだと思う。

しかしながら同時にその一方で、ボノという人はアメリカという土地、アメリカという価値観に、自分が強く惹かれていることも隠さずに歌っている。アイルランドで生まれたU2の面々がいかに「アメリカ大好き」な人たちであるかは、自分たちが初めてアメリカの地を踏んだ時の高揚感をそのまま演奏の中に閉じ込めた「 Angel Of Harlem」という曲に、極めてハイテンションな形で綴られている。同じくアイルランドのバンドであるポーグスも、アメリカを舞台としたりテーマとしたりしている楽曲を数多く作っているが、ポーグスというバンドのアメリカに対する「こだわり」は、自分たちがアイルランド人であるという「ルーツ」にこだわり抜くことの中から形成された「こだわり」であるように感じられることの反面、U2がアメリカに夢中になるのはそこがひたすら「世界のポップカルチャーの中心」であるからで、その姿勢にコンプレックスや対抗心のようなものはほとんど感じられない。言わば「土俗性」を追求しているか「普遍性」を追求しているかというスタンスの違いみたいなものがそこに示されているように思われるわけで、この点、関西人の私としましては、一生を「在阪芸人」としてやって行かはるタイプの芸人の人らと、若い時点で東京に行ってしまわはるタイプの芸人の人らの姿とがピッタリ重なってくる感覚を覚えてしまうのだけど、それはとりあえずここでは、雑談である。でもってそのどちらが良くてどちらが悪いとかいったようなことも、私の立場からは、決められないと思う。そういう違いというのは、本人たちの意思がどうあれ選ぼうと思っても選べるものではないと思うし、それは私だって、そうなのだからである。
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アルバム「Joshua Tree」においては、「Bullet The Blue Sky」という曲でアメリカという国家が世界に対して何を行なっているのかという事実が衝撃的に暴露され、続く二曲の「Running To Stand Still」「 Red Hill Mining Town」においては、資本主義の価値観が人間の心や営みをいかにズタズタに引き裂いてしまうものであるかということが、淡々とした調子で語られている。そうした「旅」を経た上で、改めて歌い手自身がアメリカという大地の上に立つ、という流れの中で収録されているのが、この「In God's Country」という曲であると言いうると思う。この曲においてアメリカという土地/国家は、「desert (砂漠/荒野)」という言葉で象徴されている。それは「不毛の地」の表象であると同時に、「目の前の風景の全てを自分の好きなように作り変えることのできる無限の可能性」を寓意している言葉でもある。(その意味においてこの歌における「アメリカ」は飽くまで「ヨーロッパの白人にとってのアメリカ」でしかないと、ここでは言わねばならないだろう。少なくともその大地を「かけがえのない故郷」としてきた先住民の人たちにとっての「アメリカ」は、この歌においては完全に捨象されている)



この歌に出てくる「She(彼女)」という言葉は「自由の女神」を指していると、関係資料には書かれてあった。いわば「女性として擬人化されたアメリカ」に対する呼びかけである。この点、「自由の女神のたいまつに照らされた夜の海」の情景から始まる下のポーグスの歌との関連性が感じられて、私には興味深かった。過去の世紀に日本からアメリカを目指した人たちにとって、その「入口」はサンフランシスコの金門橋であり、自由の女神はアメリカ横断ウルトラクイズの決勝戦の地になっていたことにも示されるように、「一番遠いところで待っている存在」だという感覚が、恐らくは今の私たちにも、あるのだと思う。けれども大西洋を渡ってアメリカを目指したアイルランドの人たちにとって、「自由の女神」は誰にとっても自分たちのことを最初に迎え入れてくれる、「新天地の象徴」であり続けてきた。その感覚の違いは、「知っておいた方がいいこと」だと思う。
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=翻訳をめぐって=

Desert sky
Dream beneath a desert sky

「Desert」は「砂漠」とも「荒地」とも訳せる言葉なのだけど、「砂漠」と「荒地」では、日本語としての印象がずいぶん変わってくる。何しろ日本には砂漠がないもので、「砂漠」というとどうしても砂丘やラクダといったエキゾチックなイメージが浮かんでしまうからだと思うのだけど、ここでの「Desert」はラスベガスのあるアメリカ西部の砂漠地帯のことを指しており、そこには岩山もあれば、サボテンなんかも生えている。どちらかと言えば「荒地」や「痩せ地」といった日本語を使った方がイメージは誤解なく伝わるのかもしれないが、日本語の「痩せ地」に猫の額みたいな語感がつきまとっていることの一方で、アメリカのそれは地平線の彼方まで続いているのである。難しいものだと言うよりも、自分の使っている日本語という言語がいかにこの日本列島という狭い世界向けの「仕様」になっているかということを痛感させられて、情けない気持ちになってくる。

ところで上で私は不用意に「日本には砂漠がない」などと言い切ってしまったのだけど、心配になって調べてみたところ、何と日本にも「裏砂漠」と「奥山砂漠」と呼ばれている「砂漠」が、伊豆大島の三原山の山麓に二つだけ、存在していたらしい。画像検索してみるとこれはいかにも、「砂漠」の風景である。とはいえその一方でやはりどこかに「日本的な情緒」みたいなものが漂っているのも感じとれてしまうわけで、「砂漠」という日本語は、どうなんだろうなあ。19世期以前にも、使われていたケースはあるのだろうか。科学的には緯度がどうだとか年間降水量がどうだとかいった厳密な「定義」も存在しているらしいが、煩雑になるのでここでは触れない。




1994年度の奈良県の公立高校入試の英語の試験の最初の問題は、この「desert」という単語のアクセントはどこにあるか、というものだった。私はこの歌を頭の中で歌ってみて「ザ」の位置にマルをつけたし、友だちのアッキーは同じく「ここはまぶしい砂漠 Desert Town」という歌詞の出てくるチェッカーズの歌を心の中で歌って「ザ」の位置にマルをつけた。ところがあにはからんや、正解は「ディ」の位置だった。私は今でも納得できないので、そのことをいつまで経っても覚えている。ちなみにこの記事を書くにあたり調べ直してみたところ、正解は「辞書によってまちまち」だった。よくもまあそんないい加減な基準で、他人の人生に点数をつけてくれたな。と改めて思う。

The rivers run but soon run dry

砂漠地帯では、降った雨が最初は洪水となって勢いよく流れても、途中で干上がってしまう「尻無し川」と呼ばれる地形が形成される。アフリカやアラビアではそれが「ワジ」、アメリカやメキシコでは「アロヨ」と呼ばれているとのこと。

その「水」に喩えられているのが、アメリカという土地に生きた、また現在も生きている数え切れないぐらいの人々の夢や情熱なのだろう。みたいな解説は多分ここでは蛇足。

Dress torn in ribbons and in bows

これは「着ている服がズタズタになってリボンや棒ネクタイの集合体みたいになってしまった有様」を示す慣用表現で、「リボン」という言葉が出てくるからといって可愛らしいイメージで翻訳したら誤訳になる。ということを私が知ったのは アズテック·カメラの記事を書いた時のことだったので、つくづく何が役に立ってくるかわからないものである。

Like a siren she calls to me

「セイレーン」とはギリシャ神話に出てくる上半身が人間の女性、下半身が鳥の生きもので、海の航路上の岩礁から美しい歌声で航行中の人を惑わし、遭難や難破に遭わせる、とWikipediaにはある。その歌声になぞらえて発明された「大きな音を発生させるための装置」の総称が「サイレン」になるわけで、つまるところ英語圏では「サイレン」と「セイレーン」は「同じ言葉」だということになるのだけれど、日本語ではなぜかそれが「わざわざ」別の言葉に分割されているから、話がとってもややこしい。

さらに2006年に公開された「サイレン」というホラー映画ではこの「セイレーン」が「人魚」のことであると説明されており、私はそれでこの言葉を覚えていたから今回調べてみて「え?鳥?」と大混乱に陥ったのだけど、さらに調べてみた結果、「セイレーン」の「もともとの姿」はやはり「鳥」で、それが誤って伝承された結果「魚」に変わり、スターバックスコーヒーのロゴマークにも使われるようになったりしたもので今では収集がつかなくなった、等々いろんなことも明らかになった。とはいえそもそも想像上の生き物である以上そこに「正解」なんて初めから存在しているわけもないわけで、話はつくづくややこしい。


ZELDA セイレーン

Sad eyes, crooked crosses
In God's country

「ねじ曲げられた十字架」とは砂漠に立つサボテンや、「Joshua Tree」と呼ばれる「ユッカの木」を指した比喩表現だろうということが海外サイトには書かれていたが、同時にアメリカという土地では「キリスト教の信仰が歪められている」ということへのボノ氏の憤りが強く出た歌詞なのだと思う。とりわけKKKの「十字架を燃やすパフォーマンス」に、彼氏は別の歌でも強い怒りを表明していた。

She stands with a naked flame
I stand with the sons of Cain

「naked flame」とは自由の女神が右手に捧げた「たいまつの炎」のことを指している言葉だろうし、同時にアメリカという土地に生きる人々の中に渦巻いている「欲望の炎」、同時にその中で踏みしだかれて生きてきた人々の「怒りの炎」を指している言葉だとも言えよう。

「sons of Cain (カインの末裔)」という歌詞は判じ物じみているが、調べたところ旧約聖書において「人類最初の殺人者」とされているカインの6代目の子孫にはユバルという人がおり、この人は「フルートとハープ」を発明したことから「音楽家の始祖」と呼ばれているらしいことが分かった。つまり、若い頃のいろんな葛藤がありつつも音楽に生きる道を選んだボノという人は、キリスト教的に言うならば「ユバルの民」の一員になったわけであり、「カインの末裔として生きること」を選択したということになるわけである。ユバルの民。ユミルの民。関係があるのかないのか私は知らないけれど、まあ、「作ればある」と言える程度のつながりなら、あるのだろう。

ちなみに「カインの末裔」という有島武郎の有名な小説に関しては、私は長らく中学か高校の「国語便覧」でその名前を見かけたという以上のことは何も知らずにいたのだけれど、今回一応調べてみたら、天理教が出てくるらしい。がぜん、読んでみなければという気持ちになりつつある。


フォーク·クルセダーズ 青年は荒野を目指す

母親が少女時代に挫折したフォークギターの教則本を通じて、子供の頃に知った歌。何かものすごくスッキリしないと言うか、切れ味が悪いと言うか、独特のメロディなのである。いま聞いてもやっぱりそう思う。「そこに青年の苦悩が表現されている」とか言われたら、そうなのかもしれないが。ではまたいずれ。


=楽曲データ=
Released: 197.3.9.
Key: G