華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

The Village Green Preservation Society もしくはペンギン·ハイウェイのことなど (1968. The Kinks)

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「しかし考えてみてくれ。日本中が真っ平らになって、山も海も海岸も湖もなく、そこに均質な公団住宅をずらりと並べることが、正しいことなのかな」

「わかりませんね」とぼくは言った。「そういった設問自体が適当なのかどうかがわからない」

ー村上春樹「羊をめぐる冒険」1982年

今回取りあげる「The Village Green Preservation Society」は、前回このブログに「ブロガーバトン」を回してくださった「緑柘榴庵」の烏丸千弦さん(id:karasumachizuru)から翻訳リクエストを頂いたキンクスの楽曲なのだけど、歌詞を一読した私は、悩んでしまった。大して難しいことの書かれた歌詞でもないのだけれど、「どういうつもりで書かれた歌」なのかということが、読んでみただけではよくわからない。聞いてみるとますますよくわからなくなった。歌詞から受けていた印象とは、丸っきり違った曲調だったからである。

一言で要約するなら「古き良きイギリスを守れ」というのがこの歌に歌われている内容ではあるわけだけど、そのイギリスの人たち自身はこの歌を「どういう歌」だと考えているのだろうということを、まずは知る必要があると私は思った。そしてこの歌の中に次々と登場する「固有名詞」の数々が、イギリスの人たちにとっては「どういうもの」であるのかということも、「ちゃんと」知っておかねばならないと思った。そう思って調べてみたところ、英語圏の歌詞読解サイトである「Genius」では、この歌のことが以下のように紹介されていた。

この曲を理解するためには、「ヴィレッジ·グリーン·プリザベーション·ソサエティ」とは何であるのかをまず理解しなくてはならない。「ヴィレッジ·グリーン」とは、集落の中にある公共に開かれた場所のことである。そこには池があることが多く、元々は牛などの家畜に水を飲ませるための場所とされていた。

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「ヴィレッジ·グリーン」のイメージ画像

17~19世紀におけるイギリス農業革命ならびに都市化の流れの中で、過去数世紀のあいだに「ヴィレッジ·グリーン」の多くは失われてしまった。そして「緑を守れ」という運動の一環として、この「ヴィレッジ·グリーン」の保存を呼びかける小さな団体(プリザベーション·ソサエティ)がいくつも設立されることになった。

キンクスがこの歌で言及している「ヴィレッジ·グリーン」は、字義通りの「ヴィレッジ·グリーン」ではなく、むしろ象徴的な意味を持たされた「ヴィレッジ·グリーン」である。すなわちイギリスにおいて、それなりに偉大ではあるのだろうが「古いやり方」を良しとする人々にとっては居心地のよくない「新しいやり方」に取って代わられつつある、人々の生活文化の象徴として、「ヴィレッジ·グリーン」という言葉がここでは使われている。ノスタルジアをかき立てる言葉であると同時に、歌の中に極めて厳粛なトーンをもたらしている言葉でもある。かつては人々の生活に喜びや楽しさをもたらしてくれたその「ヴィレッジ·グリーン」が、より大きな力によって消滅の危機にさらされているということが、ここでは歌われているからだ。

評論家のロバート·クリストゴーやアンディ·ミラーは、この曲の陽気なアレンジが、歌詞から放たれる厳粛で重苦しいイメージを相殺する効果をあげていることを指摘している。また評論家によっては、この歌の中のトラディショナリズム(伝統主義/保守主義)が果たしてどれだけ真面目に受け取るに値する代物であるかは疑問であるとする向きもある。一体、フー·マンチューのどこが「トラディショナル」だと言うのだろうか?「ヴィレッジ·グリーン」を「トラディショナル」だと言うのとは全く意味が違う。ドナルドダックに至ってはアメリカ生まれであり、イギリスのものですらない。またキンクスというバンドが「純潔を守ること」を本気で主張していたとは、誰が考えても思えない。多くの評論家はこうした歌詞を、面白半分の誇張であると考えている。

この曲および同名アルバムの全ての歌詞を書いたレイ·デイヴィスは、1968年の一時期、BBC放送の深夜のコメディ番組のために、諷刺や皮肉を効かせた楽曲をいくつも書いていた。その影響がこの歌の中にも表れているのだと思われる。

…以上のことを参考に「大体のイメージ」を作って私の書いたのが、以下の試訳である。


The Village Green Preservation Society

The Village Green Preservation Society

英語原詞はこちら


We are the Village Green Preservation Society
God save Donald Duck, Vaudeville and Variety
We are the Desperate Dan Appreciation Society
God save strawberry jam and all the different varieties

我々は
ヴィレッジ·グリーン保存協会である
神よドナルドダックを護りたまえ
ボードビルをバラエティを護りたまえ
我々は
デスぺラート·ダン愛好会である
神よイチゴジャムを護りたまえ
そしてその他すべての
あらゆるジャムを護りたまえ


Preserving the old ways from being abused
Protecting the new ways for me and for you
What more can we do

古いやり方を
損なわれることのないように維持すること
我々おたがいのために
新しいやり方を保護すること
それ以上の何が我々にできようか


We are the Draught Beer Preservation Society
God save Mrs. Mopp and good Old Mother Riley
We are the Custard Pie Appreciation Consortium
God save the George Cross and all those who were awarded them

我々は樽出し生ビール保存協会である
神よモップおばさんと
オールド·マザー·ライリーを護りたまえ
我々はカスタードパイ愛好会である
神よジョージ·クロス章と
そのすべての受章者を護りたまえ


We are the Sherlock Holmes English Speaking Vernacular
Help save Fu Manchu, Moriarty and Dracula
We are the Office Block Persecution Affinity
God save little shops, china cups and virginity
We are the Skyscraper condemnation Affiliate
God save Tudor houses, antique tables and billiards

我々は
シャーロックホームズが喋っていたのと
同じ英語を話す者たち
フー·マンチューを守れ
モリアーティをドラキュラを救え
我々はオフィス街からの迫害を
憂える立場を共有する者たち
神よ個人経営の店を護りたまえ
瀬戸物の紅茶のカップを
純潔を護りたまえ
我々は摩天楼を糾弾する会会員
神よチューダー式の家屋を
アンティークのテーブルを
ビリヤードを護りたまえ


Preserving the old ways from being abused
Protecting the new ways for me and for you
What more can we do

古いやり方を
損なわれることのないように維持すること
我々おたがいのために
新しいやり方を保護すること
それ以上の何が我々にできようか


We are the Village Green Preservation Society
God save Donald Duck, Vaudeville and Variety
We are the Desperate Dan Appreciation Society
God save strawberry jam and all the different varieties

我々は
ヴィレッジ·グリーン保存協会である
神よドナルドダックを護りたまえ
ボードビルをバラエティを護りたまえ
我々は
デスぺラート·ダン愛好会である
神よイチゴジャムを護りたまえ
そしてその他すべての
あらゆるジャムを護りたまえ


We are the Village Green Preservation Society
God save Donald Duck, Vaudeville and Variety
We are the Village Green Preservation Society
God save Donald Duck, Vaudeville and Variety

我々は
ヴィレッジ·グリーン保存協会である
神よドナルドダックを護りたまえ
ボードビルをバラエティを護りたまえ

=翻訳をめぐって=

We are the Village Green Preservation Society

他のサイトでは大体「ぼくらは村の緑保存協会」といった感じの70年代フォーク調(?)の文体で翻訳されているのだけれど、この歌について語っている海外サイトが口を揃えて強調しているのは、歌詞の文体が「solemn(厳粛な/いかめしい)」だということである。「大げさな言葉に軽い曲調」というのが、おそらくはこの歌の「コンセプト」になっているのだと思われる。なのでどちらかと言えば「右翼の街宣車調」の日本語で翻訳するのが、私は右翼が大嫌いではあるけれど、この場合は「正解」なのだろうなと考えた。なお、この歌を翻訳している間じゅう、ふた昔ぐらい前の下のCMがずっと頭の中をぐるぐるしていたことは、全くどうでもいいことではあるけれど、付記しておきたい。


OCN 光体操

「Village Green」は「村の緑」一般ではなく、上に引用した解説の中に書かれているように、「イギリスの集落の中に伝統的に設けられてきた公共空間」のことを指している言葉である。日本の文化の中でそれに近いものを考えるなら「鎮守の森」になるのだろうが、しかし「鎮守の森」と「ヴィレッジ·グリーン」は「同じもの」ではない。「鎮守の森」は「家畜に水を飲ませるための場所」では基本的になかったはずだし、また同様の理由から「ヴィレッジ·グリーン」は「小高い丘」ではなく「村で一番低い場所」に設けられていた場所だったはずである。「鎮守の森」は「鎮守の森」、「ヴィレッジ·グリーン」は「ヴィレッジ·グリーン」なのであって、自分の属している文化の中にあるものと「置き換える」ことを通して安直に「わかったつもり」に陥ってしまわないことが、こうした場合は重要なのだと思う。なので「ヴィレッジ·グリーン」という言葉は、このブログでは音訳するにとどめた。

さらに言うなら「鎮守の森」というものが日本において「共同体を象徴する公共空間」となってきたのは、何も「日本古来の伝統」ではなく、むしろ明治の神仏分離令以降の時代になってから「作られた伝統」にすぎないのではないかという見解を私自身は持っているのだが、そこまで話を進めるとどう考えても脱線になりそうなので、深くは踏み込まないことにする。ただ頭に入れておきたいのは、「ヴィレッジ·グリーン」という言葉がイギリスの人にとって「ノスタルジーの対象」となっているのも、日本人にとっての「鎮守の森」がそうであるのと同様、「作られた伝統」の上に形作られたフィクションとしてのファンタジーでしかありえないことは十分に考えられる、ということだろう。

…歯切れの悪い文章になってしまった。

God save Donald Duck, Vaudeville and Variety

この歌は要するに、1944年生まれのレイ·デイヴィスと同じ世代のイギリス人にとって「なつかしい」と感じられるものが列挙されているだけの歌で、そのひとつひとつが「イギリス的」であるか否かといったようなことは、初めからあんまり考えられていないのだと思う。だから「ドナルドダック」というアメリカ生まれのキャラクターも、ここにはフツーに顔を出す。

「Vaudeville」とは「17世紀末にパリの大市に出現した演劇形式である」とWikipediaにはある。アメリカではその「ボードビル」という言葉が「舞台での踊り、歌、手品、漫才などのショー・ビジネスを指す」とのことで、この歌に歌われている「ボードビル」もそういう「ボードビル」なのだと考えておけば間違いはないと思う。日本でもそう言えばむかし若人あきらという人が「こち亀」に巻末感想を寄せていた時の肩書きが「ボードビリアン」だったように記憶しているけれど、今では大体「コメディアン」、さらには一周回って「芸人」で統一されてしまっている感があり、「ボードビル」という言葉が「わざわざ」使われている例はあまり見なくなった。何しろ「ボードビル」は「ボードビル」なのであって、無理に日本語に置き換える必要はないと思う。

「Variety」とはテレビの時代になる前のイギリスにはどの街にも一軒はあったとされている「バラエティ·シアター」のことを指す言葉であり、そこでは芝居や音楽、手品やジャグリングや腹話術(…つまるところ「ボードビル」)が毎日上演されていて、人々に娯楽を提供していたとのこと。日本語に移すとこれもさしづめ「寄席」ということになるのだろうが、「寄席」というのは日本文化においては決して「どの街にも必ずひとつはあった」ようなものではない。なので「バラエティ」はやっぱり「バラエティ」なのである。今回の記事はどうしても、そんな話ばかりになってしまう。

We are the Desperate Dan Appreciation Society
God save strawberry jam and all the different varieties

「Desperate Dan」というのは1930年代のイギリスのマンガ「ダンディ」の主人公の名前で、「牛を片手で持ちあげる世界最強の男」という設定になっていたらしい。マンガの舞台はアメリカ西部だとのことで、それが「古き良きイギリスを守れ」という歌の文脈の中に出てくるわけだから、いちいちややこしい話になる。他のサイトでは「やけくそダン」と訳されている例が多いが、「世界最強の男」はあまり「自暴自棄」にはならないものだと思うので、「あらくれダン」みたいな訳し方の方がイメージには近いのではないかと私は感じた。知らんのやけど。知らんから「デスペラート·ダン」としか書かなかったのだけど。

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「イチゴジャム」および「その他もろもろのすべてのジャム」は「イギリスの生活文化の精髄」なのであると、海外サイトでは評されていた。日本文化に置き換えるとこれもさしづめ「味噌」になるのだろうか。別にここでも、無理やり置き換えるようなことはしないのだけど。

Preserving the old ways from being abused
Protecting the new ways for me and for you
What more can we do

他の翻訳サイトの人たちはみんな、この二行目をどう訳すかで悩んでおられるようである。この歌はどう聞いても「古いやり方を守れ」ということを訴えている歌だし、一行目では実際にそう歌われている。それなのに二行目では唐突に「新しいやり方を(も)守れ」と言っているからである。

そのためだろうか。「古いやり方を新しいやり方から守れ」といった相当に無理のある翻訳の仕方をしている例も散見されるのだが、「Protecting the new ways」は文法通りに読むならどう読んでも「新しいやり方を守ること」という意味にしかならない。「古いやり方を守ること」も「新しいやり方を守ること」も「どちらも必要」だとこの歌は訴えているのだとしか、考えられないように私には思える。

それって具体的には「どういうこと」なのかということは、歌詞の言葉からは全然読み取ることができない。これだけ「古き良きものを守れ」と連呼しておいていきなり「新しいものも守れ」と言われても、わけのわからない歌だという印象しか湧いてこない。とまれ、この歌の歌詞には「そう」書かれている。私としては、素直に「そう」翻訳しておく他にないところだと思う。

We are the Draught Beer Preservation Society
God save Mrs. Mopp and good Old Mother Riley

樽から出したそのままの、加熱殺菌していないビールを「ドラフトビール」、加熱殺菌してある瓶詰めのビールを「ラガービール」と呼ぶことは、ビールが好きな人にとっては常識なのだろうが、酒が全然飲めない私にはこうやって資料を丸写しすることはできても、どう違うのかが全くわからない。それぞれの味がどう違っているのかということも、実は知らない。

「Mrs. Mopp」は1939年から49年にかけてイギリスで放送されていたラジオのコメディ番組「It's That Man Again」の登場人物の名前。「Old Mother Riley」は20世紀のイギリスのミュージックホールで繰り返し上演されてきた出し物の主人公の名前。だとのこと。ここも、知らないので、丸写しするしかなかった。

God save the George Cross and all those who were awarded them

「ジョージ·クロス」とは「自らの危険を顧みずに人命を救助した者や大事故・事件を防いだ者等の勇敢さを讃える」ためにイギリス王室から与えられる記章のことであり、「一般市民が受章できる最高位の勲章」であるとされているのだという。(軍人の「敵前での勇気ある行為」に対しては、「ヴィクトリア十字章」というものが与えられるらしい)。その勲章の「値打ち」ならびにその受章者たちを「守れ」というこの歌詞は、つまるところ「イギリスの一般市民の良心」みたいなものを「守れ」という主張であると解釈することが可能だが、「イギリス王室」を「守る」ことが「良いこと」だとは私には到底思えないので、賛同しかねる歌詞である。

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We are the Sherlock Holmes English Speaking Vernacular

Sherlock Holmes EnglishをSpeakingしているVernacular、という意味になるのだと思う。高知の人が「坂本龍馬は自分たちと同じ言葉を喋っていた」ということを「誇る」感覚、あるいは奈良の天理教信者が「中山みきは自分たちと同じ言葉を喋っていた」ということを「誇る」感覚に近い気持ちが、ここでは歌われているのだと考えられる。

「誇る」のは、「いいこと」だと思う。「威張る」のでなければ。と奈良の天理教信者の家で育った私は思う。

Help save Fu Manchu, Moriarty and Dracula

モリアーティはシャーロックホームズの敵役。ドラキュラは吸血鬼。誰でも知っている。だがフー·マンチューというのは何者なのか。調べてみたらAmazonで今でも売られているという、下のような本の表紙絵が出てきた。

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Wikipediaによるならば

フー·マンチュー(傅満洲博士)とは、イギリスの作家サックス・ローマーが創造した架空の中国人。西欧による支配体制の破壊を目指して陰謀をめぐらす悪人であり、東洋人による世界征服の野望を持つ怪人である。単行本の第1作「ドクター・フー・マンチューの秘密」によると、フー・マンチューは北京の漢方医であったが、義和団の鎮圧にあたった西欧列強軍によって妻子を殺され、白人への復讐と、世界征覇の野望に燃える冷酷な殺人鬼と化したとされる。

…とのことである。

立派な人ではないか。としか同じ東洋人である私には思えない。そら、世界征服とか、冷酷な殺人とか、そういうのはアカンと思うよ。でも「西欧による支配体制の破壊」を目指すことがどうして「悪」になるのか、まして「西欧列強軍によって妻子を殺され」た人間が「白人への復讐」を企てることがどうして「悪いこと」になるのか、私には全く理解することができない。

て言っかこの人は「架空のキャラクター」なのである。「西欧列強軍によって妻子を殺されたこと」をきっかけに「東洋人による世界征服の野望」を持った人間や「冷酷な殺人鬼と化した」人間が、「実際にいた」わけではないのである。むしろこの人は「実際に」何の罪もない北京の漢方医の妻子を虐殺した側の「西欧の白人」の「想像力」によって、作り出された「怪人」なのだ。このフー・マンチューというキャラクターを創造した「イギリスの白人」は、自分たちが「西欧による支配体制」を世界に構築しようとしてきたこと、1900年の義和団事件に際してはそのために多くの中国の人々を虐殺したということを「自覚」しており、それに抵抗しようとする東洋人が当然存在するであろうことを「理解」しているくせに、その人たちのことを平気で「悪役」に仕立てることができるのである。そしてその「東洋人の悪だくみ」が「白人の叡智」によって打ち砕かれる物語を書いたり読んだりすることで「スカッとする」ことができるわけなのである。そしてそういうのに「スカッとする」ような「白人」がいまだに大勢いるから、世の中がインターネットの時代を迎えた21世紀に至ってもこうした本がAmazonを通じて大量に売られ続けている、ということなのである。

ふざけるなよ、と私は思う。我々が江戸川乱歩の「少年探偵団」を読んできたのと同じような感覚でそういう作品に子供の頃から「親しんで」育ったイギリス人の成人諸氏にとっては、「フー·マンチューか。あったあった。なつかしいねー」だけで済まされる話なのだろうし、この歌においても「それ以上の大した意味」は持たされていないことだろう。けれども我々東洋人にとっては「なつかしいねー」で済ませてもらっては「困る」話なのである。あなた方がそれを「なつかしい」と思い続けている限り、我々の存在はあなた方の意識の中では「敵」と見なされ続けているということなのだ。イギリス人であるあなた方自身がその感覚に「決着」をつけてみせてくれることがない限り、我々にはあなた方のことを永遠に信用することができない。どんなに「信用したい気持ち」をこちらの側が持っていたとしても、の話である。

そしてそろそろこの歌に対する私自身の態度を明らかにしておかねばならないように思うのだが、一言で言ってこの歌は「保守的な歌」だと思うし、そう評価する以外にないような歌であると思う。「保守的」であるということは、例外なく「差別的で強権的で抑圧的であること」を意味している。つまりは「恐ろしいこと」なのである。

自分はどちらかと言うと「保守的」な人間だから、みたいな言葉をサラッと口にできるタイプの人々というのは、基本的に人から差別されたり力づくで言うことを聞かされたりといった思いを「経験させられなくても済む立場」で暮らしている人たちである。だから自分が軽い気持ちで口にしているその言葉がどんなに「恐ろしい言葉」であるかということにも、基本的には気がついていない。この歌に出てくる「フー·マンチュー」という言葉の「使われ方」も、そのいい例のひとつだと言うことができるだろう。

自分が「保守的」であることを「誇って」みせるようなタイプの人間に対しては、どうせなら「私は差別的で強権的で抑圧的な人間なんです」とハッキリ言ってみやがれ、と私はいつも思う。言えてしまう人間も世の中には決して少なくないから始末に負えないのだが、その方がこちらとしてもよっぽど「戦いやすく」なる。

ただその一方で、自分を人間として育んでくれた「なつかしい風景」が世界から失われてゆくことに「逆らいたくなる気持ち」というのは、誰もが持っている「当たり前の感情」なのではないかとも思う。そうした気持ちというのは常に「保守的な政治主張」に回収されてゆく他にないものなのだろうか。「緑を守れ」というのは、「資本主義に対する異議申し立て」にもなりうる主張なのである。そうしたことも、同時に感じた。

子どもの頃の私は、「緑が失われること」が「世の中から人間らしい生き方が失われてゆくこと」に直結しているという感覚を強烈に持っていた。今でも持っていると言えば持っているが、子どもの頃と比べるとそれが昔ほど強烈でないのは、オトナになっていろんな土地を転々として暮らすようになった中で、自分の故郷でない土地では自然が破壊されている現場に出くわしてもそれほど心が痛まないものなのだということを「知って」しまっているからなのだと思う。子どもの頃に自分を取り巻いていた「故郷の自然」というものは、自分にとってそれこそ「自分の身体の延長」に他ならなかった。だからそれが破壊されることに対しては具体的な「痛み」を感じた。そういうことだったのだろうと今では捉え返している。

私の育った奈良市の西郊は、大阪の中心部まで電車で30分もかからないことから1970年代以降、急速な新興住宅地化が進んでおり、子どもの頃には毎日どこかで山や田畑を切り開いて造成工事が行われていて、その光景はいちいち私の心を蝕んだ。昨日までそこで遊んでいた「子どもたちだけの秘密の世界」が、次から次へとフェンスで囲われては、消えてゆくのである。「文明」というものを私は憎んだし、「新しいやり方」というのは何でも「悪」であるように思われた。「ヴィレッジ·グリーン保存協会」ではないけれど、似たような名前の「自然を守る会」みたいなのを友だちと結成して、不動産屋が「立入禁止」の看板を立てたあらゆる場所に潜入する、みたいな遊びもやっていた。だからレイ·デイヴィスという人がこうした歌を作った気持ちは、ある意味でとてもよくわかるようにも感じている。

ところでそんな私たちの同学年で、二つ隣の小学校に通っていた人に、現在では森見登美彦という名前で作家をやっている人がいる。私はこの人のことをオトナになるまで知らなかったし、もちろん面識もないのだけれど、この人の書いた「ペンギン·ハイウェイ」という子ども向けの小説を最近読んで、ビックリさせられた。そこに描かれている風景が全部「自分の知っている風景」だったということにまずビックリさせられたのだが、その同じ風景が同い年のこの作家の人の目にはこんなにも「違って」映っていたのかということに、もっとビックリさせられた。そして「故郷の風景」というものがそこで暮らす一人一人の人間にとって持っている意味は、決して「同じ」ではないのだということを学ばされたように感じた。

今回の記事ではそこから、私が「ペンギン·ハイウェイ」という作品にどのような衝撃を受けたのかというところにまで話を進めていきたいと当初は考えていたし、だからサブタイトルも「ペンギン·ハイウェイのことなど」にしたのだが、ここまでで充分長い記事になってしまったし、内容的にも脱線してゆくことは明らかなので、それについては改めて別の記事を書いて、そこにまとめることにしたいと思う。ただ今回キンクスの「The Village Green Preservation Society」という歌を初めて聞いた時に私の心にまっすぐ浮かんできたのは、森見登美彦氏が「ペンギン·ハイウェイ」の中に描き出していた「自分にとって最もなつかしいけれど、同時に自分が今まで一度も見たことのなかった奈良県北西部の風景」に他ならなかった。そのことだけ、付記しておくことにしたい。

ではまたいずれ。


=楽曲データ=
Released: 1968.11.22.
Key: C

ペンギン・ハイウェイ (角川文庫)

ペンギン・ハイウェイ (角川文庫)