華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Love in Vain もしくは伊藤比呂美さんの翻訳を通じて① (1937. Robert Johnson)

唐突ですが、若いころ、あたしは太宰治に夢中でした。人間失格トカトントンで晩年しちゃってました。

伊藤比呂美「ラヴソング」2004年ー

伊藤比呂美さんの「ラヴソング」という本を読んでいる。10代の頃にRCサクセションの「プリーズ」というアルバムについて書かれたこの方の文章を読んで「何てカッコいいひらがなの使い方をする人なんだ」と感銘を受け、すぐさま図書館に行って探してみたものの、読んでみてその内容のあまりの刺激の強さに恐れをなし、敬して遠ざけ続けて20余年、最近になってようやく「安心して」読めるようになった詩人の伊藤比呂美さんである。

もっとも「安心して読めるようになった」などというのは、詩人の方に対しては場合によってはものすごく失礼な言い草であるに違いない。詩人の言葉というのはやっぱり読み手の存在を根底からグラグラに突き崩すぐらいの破壊力を備えていてハウマッチというものだろう。それを「安心して読める」などと言ったら、「あんたの言葉ごときで私の存在はビクともしない。昔ならいざ知らずね」とケンカを売っているに等しいことになってしまう。私だって、カチンと来るもの。「華氏65度の冬は安心して楽しめるブログですね」とか言われたら。誤解のないように付け加えるなら、オトナになることを通して私の身体には刺激に対する耐性が多少は付け加わったものの、伊藤比呂美さんの言葉は相変わらず私の存在を、グラグラに揺るがし続けているのである。そしてやっぱり新しいページをめくるたびごとに、どきどきゾクゾクさせられ続けているのである。もしもこの刺激を10代の頃にまともに浴びてしまっていたら、私の存在はそれに耐えきれずに本当に潰れてしまっていたかもしれない。そういうことが言いたかっただけなのである。

「だったらなぜ潰れることを選ばなかった」と言われてしまうかもしれない。詩人の人はそういう怒り方をするものだという先入観みたいなものが、何となく私にはある。誤解のないように、とまたしても私は言いたくなってしまうのだが、相手が詩人である場合それは必ずしも誤解であるとは限らず、むしろ相手の言ってることの方が遥かにこちらの本質を射抜いている場合があったりするから、大変なのである。ごもっともですおっしゃる通りです。確かに私のごとき存在はあの17歳の時に潰れてしまうべきだったのであって滅びてしまうべきだったのであってそれは私自身うすうす感づいていたことであったのです。て言っか本当のことを言うなら私はあの時すでに潰れていたのかもしれず、以降の20数年間はそれを押し隠すために必死で「潰れていないフリ」をし続けていただけだったのかもしれない気が実はしているのです。わああどうしてこんなことになってしまったのだろう。私は単に伊藤比呂美さんの書く文章が大好きでいつも愛読していますということが言いたかっただけなのに、詩人の人をホメるのは何て難しいことなのだろう。て言っか難しくしてるのは私自身じゃないかということもジュージュー自覚しているつもりではいるのだけれど、だったら私はどうしてこんな人間になってしまったのだろう。それは伊藤比呂美さん何十%かぐらいは割とあなたのせいであったりするのかもしれないのですよ。

…こんな風にあらかじめ「言い訳」を準備しておかずにいられないのは、最近になってYouTube伊藤比呂美さん自身による詩の朗読や講演の様子を何本か見ることができるようになっていることを知り、その中で伊藤さんが自分の書いた本について世の中ではどんな風に言われているかということを割と頻繁にネットでチェックしているらしいという話を、聞いてしまったからである。昔は伊藤比呂美という詩人の人の声はおろか顔写真すら見ることのできる機会が自分に訪れようとはおよそ思えなかったのに、世の中ずいぶん風通しが良くなったものだと思う。しかしあまりに距離感が近くなってしまっても、それはそれで何を言ったらいいのか分からなくなってしまう。人間はまだネットというものの存在に、それほど慣れてはいないのだ。それにしても、うーむ。こんなに気さくに喋って下さる方だったのだな。動画のリンクはあえて貼らない。私は20年がかりでようやく顔を見ることができたというのに、このブログを通じて伊藤さんのことを初めて知った人は顔と声から入るというのは、どうも「不公平」なことに思える。ここはやっぱり「本」から入ってほしいと、私としては思う。

今回わたしが「ラヴソング」という本を取りあげさせてもらおうと思ったのは、その中に伊藤さん自身が翻訳された「ロックの訳詞」が何本か載っていたからだった。伊藤さんみたいな大詩人が「自分と同じようなことをやっている」ことが、私にはスナオにうれしく感じられたのだ。そしてまたその訳詞というのが、当然の話ではあるけれど、とてもいい。全部を丸写しするようなことはむろん法律に引っかかる行為だが、その中から1篇か2篇ぐらいを取りあげてこのブログで紹介させてもらう程度のことは、「本の宣伝」として許容してもらえる範囲なのではないかと思う。

そう。今回の記事は全篇が丸ごと「ラヴソング」という本の「宣伝」である。本というのは基本的に店頭で多少中身を確かめてから、買うものだ。私がその中身をちょこっと丸写しさせてもらうのは、これから本を買おうとしている人からその「手間」を省いてもらうためのボランティア行為にすぎない。聞かれもしないのに繰り返し強調してしまうのは、これもやっぱり動画の中で伊藤さんが「本は全然売れないのに図書館では何十人もの予約待ちになっている」というご自身の著作の現状について、怒りをぶちまけておられるのを聞いてしまったからである。誤解のないように声を大にして訴えたいと思うけど、私が読んでいる「ラヴソング」は断じて図書館で借りた本ではない。ちゃぁーんとお金を出して買った本である。ブックオフで。

…そしてブログ読者の皆さんに対しては、ちゃぁーんとお金を出して新刊の本を買って頂きたいということを、声がカスれるぐらいに訴えたいと思う。ふう。今回は人の訳詞の丸写しでラクをするつもりだったのに、フタを開けてみるといつもの5倍ぐらい疲れているな。

伊藤さんによるロックの詩の紹介の仕方はとてもユニークで、英語の原詞と、伊藤さんがそれを「直訳」したもの、そして伊藤さんの耳には長年「そんな風に聞こえていた」という伊藤さん自身の感性を通した「訳詞」の3つが、並べて書かれている。この「訳詞」はもはや完全に伊藤さん自身の「作品」と化していて、原詞の内容みたいなものは例えて言うなら「アメリカの風景について書かれた詩」にとっての「アメリカの風景」と同じくらいに、「素材」としての意味しか持っていない。「ラヴソング」には全部で10篇の「訳詞」が掲載されているけれど、今回はその中からロバート・ジョンソンの「Love in Vain」の「訳詞」を紹介させて頂きたいと思う。まずは原詞とその「直訳」である。


Robert Johnson, 'Love in Vain'

Love in Vain

(「直訳」:伊藤比呂美)

And I followed her to the station, with her suitcase in my hand,
And I followed her to the station, with her suitcase in my hand.
Well, it's hard to tell, it's hard to tell, when all your love's in vain,
All my love's in vain.

そうだね、わたしは女を追って駅へ行った
スーツケースを手に持って
そうだよ、わたしは女を追って駅へ行った
スーツケースを手に持って
あああ、言うのはつらい
言うのもつらいことなんだ
愛ってものがそっくりむだなときもある
わたしの愛はそっくりむだになっちゃった


When the train rolled up to the station, I looked her in the eye,
When the train rolled up to the station, and I looked her in the eye.
Well, I was lonesome, I felt so lonesome, and I could not help but cry.
All my love's in vain.

汽車が駅に入ってきたとき
わたしは女の目をのぞきこんだ
そうだよ、汽車が駅に入ってきたとき
わたしは女の目をのぞきこんだ
あああ、寂しいと思った、わたしは寂しかった
どうしようもなかった、ただ泣くだけだった
わたしの愛はそっくりむだになったんだ


When the train, it left the station, there was two lights on behind,
When the train, it left the station, there was two lights on behind,
Well, the blue light was my blues, and the red light was my mind.
All my love's in vain.

そうして汽車だよ、それが駅を出たんだ
尾灯が二つ、ともっていた
そうなんだよ、汽車だよ、それが駅を出たんだ
尾灯が二つ、ともっていた
おおお、ブルーの灯はわたしのブルース
赤い灯がわたしの心
ああ、わたしの愛はむだになった


Ou hou ou ou ou, hoo, Willie Mae
Oh oh oh oh oh hey, hoo, Willie Mae,
Ou ou ou ou ou ou her vee oh woe
All my love's in vain.

いい、いい、いい、いい、おおお
ふうう、ウィリー・マエ
えいえいえいえいえいえいえい
ふうう、ウィリー・マエ
えいえいえい、へいへいへいへい
ひひひ、いいい、おおお、おおう
わたしの愛はなにもかもむだになった

…まず、選曲がシブいと思う。ストーンズやクラプトンにもカバーされているブルースの古典である。そして「いい、いい、いい、いい、おおお」以下に展開されるロバート・ジョンソンの慟哭のひらがなによる再現が、つくづく伊藤さんの言葉だなあと思う。ちなみにWillie Maeというのはロバート・ジョンソンが愛した実在の女性の名前なのだそうで、これは英語版のWikipediaに載っていた。

このブログでの言葉の使い方からするならば、こういう翻訳の仕方を「直訳」とは呼ばないところなのだけど、伊藤さんの場合だと「訳詞」の内容が原詞からあまりにぶっ飛んでいるものだから、これが「直訳」として紹介されるのもまあ、当然の成り行きなのだろうなと思う。以下に転載するのは伊藤さんが「自分の耳に聞こえる通りに自分の言葉で書いた」Love in Vainのその「訳詞」である。

女を追つて

(伊藤比呂美訳 Love in Vain)

女を追つて停車場に行つた
女を追つて停車場に行つた

手に鞄さへ抱へて行つた
手に鞄さへ抱へて行つた

夜の雨はあがつたばかり
月が出たりひつこんだりしてゐた

女の手は冷たかつた
とても冷たかつた、女の手は

汽車が停車場に入つてきたとき
汽車が停車場に入つてきたとき

私は女の目をのぞいて見た
私は女の目をのぞいて見た

月はちやうど出たとこだった
女も私もあかるくなつた

あかるいとこで私には見えた
その唇も拒絶の意思もクッキリ見えた

汽車が停車場から出てゆくとき
汽車が停車場から出てゆくとき

汽車の尾灯が点いてゐた
汽車の尾灯が点いてゐた

青と赤のきれいな灯りが
どこまでもならんで遠ざかる

しんとした停車場で
泣いてゐるのは私の心です

…いかがでしたでしょうか。これだけでも見る人をして「もっと読んでみたい」と思わせるには充分な宣伝効果を持っていると思うけど、伊藤比呂美さんの言葉の魅力を余すところなく伝えるためには、この一回だけではまだ全然足りていない気がする。だから次回はそれこそ「伊藤さんでなければ絶対に書けないような訳詞」を、もう一篇だけ紹介させてもらいたいと思う。ではまたいずれ。乞うご期待。

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